──水の静寂と山の理想郷を訪ねて
| <目次> はじめに 滋賀が誇る二つの美術館 同日に巡れるのか 日帰りアート旅のプランニング 佐川美術館で味わう水と静寂 MIHO MUSEUMで出会う桃源郷 二つの美術館を比較してみる 訪れて感じた滋賀アート旅の魅力 あとがき |
◆ はじめに
「水の美術館」と呼びたくなる佐川美術館。そして、信楽の山中にひっそりと佇むMIHO MUSEUM。
滋賀県が誇るこの二つの美術館は、ともに世界的な評価を受けながら、その魅力は驚くほど対照的である。
一方は琵琶湖畔の広々とした平地に建ち、水盤に浮かぶようなモダン建築で来館者を迎える佐川美術館。もう一方は、山深い自然の中に身を隠すように存在し、トンネルと吊り橋を抜けてようやくたどり着くMIHO MUSEUM。建物そのものが鑑賞体験の一部となる点では共通しているが、その世界観はまるで正反対と言ってよい。
実を言えば、この二つの美術館に強い関心を抱いていたのは妻のほうである。私はいつものように、妻の専属ドライバー兼ポーターとして同行することになった。
ちょうど佐川美術館では、生誕140周年を記念した「藤田嗣治 7つの情熱」展が開催されており、MIHO MUSEUMでは「百済寺と近江の仏教美術―百済寺秘仏公開によせて―」が開かれていた。どちらも妻が仕入れてきた魅力的な情報である。私は地理に弱い妻に代わって、二つの美術館を無理なく結ぶルートを考え、日帰りで巡る旅程を組み立てただけである。
今回の旅のテーマは、対照的な二つの美の空間を一日で体験することだった。
「水」と「山」。 「開放」と「隠遁」。 「モダン」と「桃源郷」。
それぞれ異なる思想のもとに生み出された建築空間を訪ね、その中で作品と向き合う。果たして私たちは何を感じるのだろうか。
本稿は、そんな滋賀アート旅の記録である。美術作品そのものはもちろんだが、それ以上に印象に残ったのは、美術館へ至る道のりから始まる非日常の体験だった。もしこれから滋賀で美術館巡りを計画されている方がおられれば、本記事が旅の参考になれば幸いである。
滋賀が誇る二つの美術館
滋賀県には数多くの文化施設があるが、その中でも全国的な知名度と建築的価値を兼ね備えた美術館として知られるのが、佐川美術館とMIHO MUSEUMである。
どちらも単に作品を鑑賞する場所ではない。
建築そのものが芸術作品であり、自然との関わり方までもが鑑賞体験として設計されている点に大きな特徴がある。
しかし、その思想は実に対照的だ。
一方は琵琶湖の水辺に開かれた美術館。もう一方は信楽の深い山中に隠された美術館である。
まずは、それぞれの魅力を簡単に紹介してみたい。
● 佐川美術館とは
佐川美術館は、滋賀県守山市の琵琶湖畔に建つ美術館である。
1998年、佐川急便株式会社の創業40周年記念事業として開館した。敷地の大部分を占める広大な水庭の中に建物が浮かぶように配置されていることから、「水に浮かぶ美術館」とも称される。
遠くには比叡山や比良山系を望み、周囲の自然と一体化するように設計された建築は高い評価を受け、多くの建築賞を受賞している。
水面に映り込む建物の姿は時間や天候によって表情を変え、訪れるたびに異なる美しさを見せてくれる。
展示作品だけではなく、「水」と「光」が織りなす建築空間そのものが大きな見どころである。
● MIHO MUSEUMとは
MIHO MUSEUM(ミホ ミュージアム)は、滋賀県甲賀市信楽町の自然豊かな山中に建つ美術館である。
設計を手掛けたのは、ルーヴル美術館のガラスのピラミッドでも知られる世界的建築家 I.M.ペイ。中国の古典『桃花源記』に描かれた理想郷「桃源郷」をモチーフとして構想された。
来館者はまずレセプション棟を訪れ、その後しだれ桜の並木道を進み、ゆるやかな弧を描くトンネルを抜け、吊橋を渡って展示館へ向かう。
このアプローチ自体が一つの演出となっており、日常世界から少しずつ離れ、理想郷へ導かれていくような感覚を味わうことができる。
さらに建物の大部分が地中に埋設されており、周囲の山々と見事に調和している。
MIHO MUSEUMの魅力は、美術品だけではなく、「そこへ至る道のり」にもあるのである。
● 対照的な魅力
この二つの美術館を一言で表現するなら、次のようになるだろう。
- 佐川美術館 = 「水と静寂の美術館」
- MIHO MUSEUM = 「山と桃源郷の美術館」
佐川美術館が水平に広がる開放的な空間であるのに対し、MIHO MUSEUMは山の奥へ奥へと誘う隠遁的な空間である。
佐川美術館が「眺める建築」だとすれば、MIHO MUSEUMは「たどり着く建築」と言えるかもしれない。
今回の旅では、この対照的な二つの美術館を一日で巡ることになる。果たして本当に可能なのだろうか。
次章では、その実際のルートと所要時間について紹介したい。
同日に巡れるのか
結論から言えば、佐川美術館とMIHO MUSEUMを1日で巡ることは十分に可能である。
私たちも当初は、「琵琶湖畔の守山市」と「信楽の山中」という立地から、少し無理があるのではないかと思っていた。しかし実際に調べてみると、移動時間や開館時間を考慮しても、日帰りでゆったりと楽しめる距離感であることが分かった。
ただし、交通手段は車が断然おすすめだ。
公共交通機関を利用する場合は、JRと路線バスを乗り継ぐ必要があり、移動だけでかなりの時間を要する。接続によっては大津や草津方面を経由することになり、美術館で過ごす時間が削られてしまう。
その点、自家用車やレンタカーを利用すれば移動は非常にスムーズである。
佐川美術館(守山市)からMIHO MUSEUM(甲賀市信楽町)までは、およそ30km前後。道路状況にもよるが、所要時間は約50〜60分である。琵琶湖大橋周辺の一般道を利用するルートのほか、名神高速道路や新名神高速道路(信楽IC)を活用するルートも選択できる。
実際に走ってみると、琵琶湖畔の開放的な景観から信楽の山あいへと風景が少しずつ変化していく。その移動時間そのものが、次の美術館への期待を高めてくれるようなドライブだった。
美術館での鑑賞時間を十分に確保しながら、移動も無理なく楽しめる。この二館を結ぶルートは、シニア世代の夫婦が楽しむ日帰り旅として、まさに理想的な距離感だと感じた。
では、実際にどのような順番で巡れば効率的なのだろうか。次章では、私たちが計画した「日帰りアート旅」のモデルコースをご紹介したい。
日帰りアート旅のプランニング
せっかくこの二つの美術館を訪れるのであれば、それぞれの魅力をじっくり味わいたい。
おすすめは、午前中に佐川美術館を訪れ、午後からMIHO MUSEUMへ向かうコースである。
水辺の開放的な空間から始まり、山中の桃源郷へと向かう流れは、美術館巡りというよりも一つの物語を辿る旅のような趣がある。
以下は、私たちが実際に計画した日帰りアート旅のモデルコースである。
1. 「水と直線のモダン美」佐川美術館へ
● 滞在時間の目安
9:30〜11:30(約2時間):
● 見どころ
佐川美術館の最大の魅力は、敷地の大半を占める広大な水庭である。まるで建物全体が水面に浮かんでいるかのような姿は、訪れた瞬間から非日常の世界へと誘ってくれる。
特に印象的なのが、樂吉左衞門館に設けられた地下の茶室空間である。地下へと降りていくにつれ外界の喧騒は遠ざかり、水と光だけが存在する静謐な世界が広がる。
まずはこの場所で心を静め、ゆっくりとアート旅をスタートさせたい。
2. 湖畔から山あいへのドライブ
● 移動時間の目安
:車で約50〜60分
● ランチのヒント
昼食は、MIHO MUSEUM到着後に館内レストランを利用するのがおすすめである。
自然豊かな環境の中で味わう食事は旅の楽しみの一つ。時間に余裕を持って到着すれば、午後の鑑賞に向けてゆったりとした気分で過ごすことができる。
また、この移動区間も意外な見どころである。
琵琶湖畔の開放的な風景から、次第に信楽の山あいへと景色が変化していく。これから向かう「桃源郷」の世界への序章として、ドライブそのものを楽しみたい。
3. 「現代の桃源郷」MIHO MUSEUMへ
● 滞在時間の目安
13:00〜16:00(約3時間)
● 見どころ
MIHO MUSEUMでは、美術館に到着した瞬間から鑑賞体験が始まる。レセプション棟から延びる並木道を進み、銀色に輝くトンネルを抜け、谷を渡る吊橋を歩く。この一連のアプローチ自体が巧みに演出されており、訪れる人を日常の世界からゆっくりと切り離していく。
そして視界が開けた瞬間、山々に抱かれるようにして現れる美術館の姿に思わず息をのむ。
建物は周囲の自然景観との調和を重視して設計されており、その存在感は雄大でありながら決して自然を圧迫しない。
館内に一歩足を踏み入れれば、建築と自然、そして美術品が一体となったMIHO MUSEUMならではの世界を堪能できるだろう。
このような順番で巡ると、
「水の静寂」から「山の理想郷」へ。
まるで一日のうちに二つの異なる世界を旅するかのような体験ができる。
それこそが、この滋賀アート旅ならではの醍醐味なのである。
佐川美術館で味わう水と静寂
● 水庭に映る風景
琵琶湖畔に建つ佐川美術館を訪れて、まず目を奪われるのが広大な水庭である。
静かな水面には空や雲、そして建物の姿が映り込み、まるで美術館全体が水の上に浮かんでいるように見える。その光景は時間帯や天候によって表情を変え、訪れるたびに異なる美しさを見せてくれる。
建築と自然が見事に調和した空間を歩いていると、いつしか日常の慌ただしさが遠のき、心が静かに整っていくのを感じる。
美術館に入る前から、すでに鑑賞体験は始まっているのである。
● 平山郁夫館の祈り
平山郁夫館では、日本画の巨匠・平山郁夫の作品が数多く展示されている。
シルクロードを題材とした壮大な作品群や、仏教文化への深い関心から生まれた作品を眺めていると、その根底に流れる「平和への祈り」が静かに伝わってくる。
広々とした展示空間には落ち着いた空気が漂い、一点一点の作品とゆっくり向き合うことができる。
派手さではなく、静かに心に沁み込んでくるような鑑賞体験が、平山郁夫館の大きな魅力である。
● 佐藤忠良と樂吉左衞門の世界
佐藤忠良館では、日本を代表する彫刻家・佐藤忠良の作品を鑑賞できる。
子どもや女性をモチーフにした彫刻の数々は、力強さの中にも温かさがあり、見る者に人間らしい優しさを感じさせる。ブロンズ像に射し込む光によって刻々と変化する表情も印象的だった。
一方、樂吉左衞門館は、佐川美術館の中でもとりわけ強い印象を残す空間である。
地下へと導かれる展示空間は、まるで水の中へ潜っていくかのような感覚を覚える。外界の光や音が次第に遠ざかり、そこには茶の湯の精神と現代建築が融合した独特の世界が広がっている。
光を極限まで抑えた空間の中で作品と向き合っていると、不思議と時間の感覚が薄れていく。私にとっては、佐川美術館を象徴する場所の一つであった。
● 心を落ち着かせる時間
佐川美術館の魅力は、美術作品だけにあるのではない。
建築、水、光、そして静寂。
それらすべてが一体となって、一つの芸術空間を形づくっている。
多くの美術館では作品を「見る」ことが主役になるが、佐川美術館では空間そのものを「感じる」ことが主役になるように思う。
ゆっくりと水面を眺めながら歩いていると、時間の流れまで穏やかになったような気がする。忙しい日常から少し離れ、自分自身と静かに向き合う。
そんな贅沢な時間を過ごせることこそ、佐川美術館の最大の魅力なのかもしれない。
MIHO MUSEUMで出会う桃源郷
● 桜並木とトンネル
信楽の豊かな自然の中に佇むMIHO MUSEUMは、中国の古典『桃花源記』に描かれた理想郷「桃源郷」をモチーフに設計されている。
その世界観は、美術館の入口に立った瞬間から始まる。
レセプション棟から展示館へ向かう道には桜並木が続き、その先には緩やかな曲線を描くトンネルが口を開けている。歩みを進めるにつれ、現実の世界から少しずつ遠ざかっていくような感覚に包まれる。
トンネル内部では、壁面に反射する柔らかな光が幻想的な雰囲気を生み出している。外界の喧噪はいつしか消え去り、これから始まる特別な体験への期待が自然と高まっていく。
● 吊橋の先の理想郷
トンネルを抜けると、視界が一気に開ける。
目の前に現れるのは、深い谷をまたぐ優美な吊橋。そして、その先に山々と調和するように建つMIHO MUSEUMの姿である。
設計を手掛けたのは、ルーヴル美術館のガラスのピラミッドでも知られる建築家I.M.ペイ。建物は自然景観との共生を重視して設計されており、その大部分が地形に溶け込むように配置されている。
橋を渡りながら振り返ると、山並みと空が織りなす雄大な風景が広がる。その風景を眺めていると、自分が美術館へ向かっているのか、それとも物語の中の理想郷を目指しているのか、ふと分からなくなるような気持ちになる。
MIHO MUSEUMの魅力は、作品を鑑賞する前から始まっているのである。
● 世界の古代美術
館内に足を踏み入れると、幾何学的なガラス屋根から柔らかな自然光が降り注ぎ、静かで気品のある空間が広がる。
展示されているのは、エジプト、西アジア、ギリシア、ローマ、南アジア、中国など、世界各地の古代文明を代表する美術品や工芸品である。
数千年の時を超えて伝えられてきた作品の数々は、それぞれの文明が育んだ信仰や思想、そして人々の暮らしを今に伝えている。
展示室を巡っていると、一つの国や時代を学ぶというより、人類の長い歴史を旅しているような感覚になる。それもまた、この美術館ならではの魅力だろう。
● 山中の静寂がもたらす余韻
鑑賞を終えて再び屋外へ出ると、そこには信楽の山々が織りなす深い緑と静寂が待っている。
佐川美術館で感じた静けさが「水の静寂」だとすれば、MIHO MUSEUMで味わう静けさは「山の静寂」とでも呼びたくなる。
風が木々を揺らす音。遠くから聞こえる鳥の声。そして目の前に広がる穏やかな山並み。
美しい建築、世界の古代美術、そして豊かな自然。そのすべてが一体となって生み出す余韻は、館内を出たあとも長く心に残り続ける。
ここは単なる美術館ではない。
桃源郷という物語の世界を、現代において建築として実現した場所なのである。
二つの美術館を比較してみる
今回訪れた二つの美術館は、どちらも日本を代表する美術館でありながら、その魅力は驚くほど対照的である。
| 項目 | 佐川美術館 | MIHO MUSEUM |
|---|---|---|
| 立地 | 琵琶湖畔 (守山市) | 信楽の山中 (甲賀市) |
| 主題 | 水と静寂 | 理想郷と自然 |
| 空間 | 開放的 | 神秘的 |
| 建築の印象 | 水庭に浮かぶようなモダン建築 | 桃源郷へ導くトンネルと吊り橋 |
| 鑑賞体験 | 心を落ち着かせる静かな時間 | 理想郷を探訪するような体験 |
| 象徴的な風景 | 水庭 | トンネルと吊橋 |
| 自然との関係 | 人工の水景と 建築の調和 | 山林と建築の 一体化 |
| 光の演出 | 水面からの反射光 | ガラス屋根からの自然光 |
| 主なコレクション | 平山郁夫、 佐藤忠良、 樂吉左衞門などの 現代日本美術 | エジプト、 ギリシャ、 ローマ、アジア などの古代美術 |
● どちらが優れているのではない
この二つの美術館を訪れて感じたのは、「どちらが優れているか」を論じることにあまり意味はないということだ。
佐川美術館は、水と光が織りなす静寂の世界へ私たちを招き入れる。一方のMIHO MUSEUMは、山中の桃源郷へと誘い、建築そのものを通して物語を体験させてくれる。
目指しているものがそもそも異なるのである。
だからこそ甲乙をつけることはできない。違いがあるとすれば、それは訪れる人の感性や、その日の気分によるものだろう。
● 比較してみて思ったこと
どちらがより静かに感じられただろうか。
どちらの建築により心を惹かれただろうか。
どちらを歩いていて楽しかっただろうか。
そして、どちらにもう一度訪れてみたいと思っただろうか。
そんな問いに対する答えは、人によって異なるはずである。
私自身は、佐川美術館では「水辺で心を整える時間」を味わい、MIHO MUSEUMでは「理想郷を探しに行く旅」のような体験を味わった。
振り返ってみると、二つの美術館は競い合う存在ではなく、むしろ互いを引き立て合う存在だったように思う。
だからこそ、この二館はぜひ同じ日に訪れてほしい。
「水の静寂」と「山の静寂」。
二つの世界を体験して初めて、この滋賀アート旅の本当の魅力が見えてくるのである。
訪れて感じた滋賀アート旅の魅力
実際に「水の美術館」と「山の美術館」を巡ってみると、そこには単なる美術鑑賞にとどまらない魅力があった。
それは、滋賀という土地が育んできた自然や風土の中で、ゆっくりと「余白を味わう旅」ができることである。
作品を鑑賞するだけではなく、その土地の空気や光、風景そのものを楽しむ。そんな贅沢な時間が、このアート旅には流れていた。
● 美術館を巡るだけではない旅
この旅の魅力は、展示室の中だけで完結しないところにある。
佐川美術館へ向かう道中では、雄大な琵琶湖と比叡山・比良山系の美しい山並みが視界に広がる。その風景は、水の都・近江の豊かさそのものを感じさせてくれる。
そして車を走らせるうちに、景色は大きく姿を変える。
琵琶湖の開放的な水辺から、深い緑に包まれた信楽の山あいへ。
水平に広がる「水の世界」から、山々が連なる「緑の世界」へ。
わずか一時間ほどの移動で、これほど表情の異なる自然に出会えることに驚かされた。
二つの美術館を結ぶドライブそのものが、滋賀の自然の多様さを味わう旅になっているのである。
● ゆっくり味わう芸術の時間
若い頃の私は、限られた時間の中で少しでも多くの名所を巡ろうとしていた。今思えば、どこかスタンプラリーのような旅だったのかもしれない。
しかし、この二つの美術館には、そのような慌ただしさとは対極の時間が流れている。
佐川美術館では、水庭を渡る風が水面を揺らし、建物に映る光がゆっくりと表情を変えていく。
MIHO MUSEUMでは、トンネルの中を歩くたびに光の加減が変わり、風が静かに通り抜ける音が耳に届く。
どちらの美術館にも共通しているのは、空間の使い方がとても贅沢だということである。
次の展示へ急ぐ必要はない。ふと立ち止まり、ベンチに腰を下ろし、光や風を感じながら過ごす。その何気ない時間こそが、実は最も豊かな鑑賞体験なのではないかと思えてくる。ここでは「立ち止まること」そのものが、旅の目的になる。
● シニア世代だからこそ楽しめる
この旅を通じて強く感じたのは、こうした美術館の魅力は、人生経験を重ねた今だからこそ深く味わえるのではないかということである。
若い頃であれば、「有名な作品を見る」「知識を得る」ということに意識が向いていたかもしれない。
しかし今は、作品そのものだけでなく、その作品が置かれている空間や、その場に流れる時間にも自然と目が向く。
樂吉左衞門館の静かな闇の中に身を置いたとき、私は作品を見ているというより、自分自身と向き合っているような感覚を覚えた。
また、MIHO MUSEUMで表現された桃源郷の世界観や、自然との共生を目指した建築思想にも深く心を動かされた。
若い頃には気づかなかったかもしれない自然への敬意や、人間が自然の中で生かされているという感覚が、今の私には素直に伝わってくる。
それは年齢を重ねたからこそ得られる感受性なのかもしれない。
急がない。
競わない。
ただ美しい空間と自然の中に身を置く。
そんな時間の豊かさを改めて教えてくれたのが、この滋賀アート旅だった。
振り返れば、この旅は作品を鑑賞する旅であると同時に、自分自身の感性を静かに解放していく旅でもあった。
もしかすると、それこそが人生の後半に味わう旅の醍醐味なのかもしれない。
◆ あとがき
──水と山が教えてくれたこと
佐川美術館は「水の静寂」、一方のMIHO MUSEUMは「山の理想郷」。実際に訪れてみると、どちらも単なる美術館ではなかった。作品を鑑賞する場所であると同時に、自分自身の感性と静かに向き合う場所でもあったのである。
どちらが良かったかと問われても、私には答えられない。
佐川美術館では、水面に映る空や建築を眺めながら、心の中にある雑音が少しずつ消えていくような静けさを味わった。
一方のMIHO MUSEUMでは、桜並木を歩き、トンネルを抜け、吊橋を渡るうちに、まるで桃源郷を訪ねる旅人になったような気分を味わった。
一つは心を静める体験。
もう一つは心を解き放つ体験。
そのどちらにも、かけがえのない価値があった。
滋賀県には、琵琶湖をはじめ歴史ある寺社や名勝が数多く存在する。しかし、この二つの美術館を巡る旅は、それらとはまた異なる豊かな時間を与えてくれる。
美しい作品を鑑賞するだけではない。
建築を味わい、自然を感じ、光や風に耳を澄ませる。
そして、普段は見過ごしてしまう「余白」の時間を楽しむ。
そんな旅がここにはある。
芸術に詳しくなくてもよい。
予備知識がなくてもよい。
ただ少し静かな時間を過ごしたいと思ったとき、この「滋賀アート旅」はきっと心に深い余韻を残してくれるはずである。
今回もまた、情報通の妻に導かれ、私は専属ドライバー兼ポーターとして旅のお供をした。しかし振り返ってみれば、運転手役だった私自身が最も多くの贈り物を受け取ったのかもしれない。
水の静寂と、山の理想郷。
その二つの世界は、今も私たち夫婦の心の中に穏やかに残り続けている。