◆ はじめに
日本の神社仏閣を訪ねるたびに、そこが「パワースポット」として語られる理由に思いを巡らせることが多くなった。 しかし同時に、神社の中心にあるはずの御祭神について、私自身の知識が驚くほど乏しいことに気付き、愕然とした。 神社を参拝しながら、その神がどのような神話に登場し、どのような役割を担っているのかを知らないまま手を合わせていたのである。
今後も日本各地の神社を訪ねるのであれば、御祭神についての基本的な理解を深めておくべきだ──そう考え、日本神話に登場する神々について改めて調べてみることにした。
日本の神々についての記述は、『古事記』と『日本書紀』に集約されている。 両書は性格が異なり、『古事記』は物語性が強く、『日本書紀』は編年体で複数の異伝を併記するなど、より公的な史書としての性格が濃い。 この違いを踏まえて読み進めると、神話時代の物語は単なる伝説ではなく、古代人の世界観や自然観が凝縮された、実に示唆に富む内容であることが分かる。
本記事では、日本神話に登場する主要な神々と、その神々を祀る神社について紹介している。 旅の計画に神社参拝が含まれている場合には、御祭神の背景を知ることで、参拝の時間がより深く、豊かなものになるはずだ。 その一助となれば嬉しい。
日本最古の史書「記紀」
天武天皇(大海人皇子、第40代天皇、在位673〜686年)は、古来の伝承や文芸を整理し、国家としての歴史を体系化することに強い関心を寄せていたと伝えられる。 681年、天武天皇は親王・臣下に命じて「帝紀及上古諸事」の編纂を開始させた。この詔が、後に完成する『日本書紀』編纂事業の出発点とされている。
また、天武天皇は稗田阿礼(ひえだのあれ)らに「帝皇日継(ていおうひつぎ)」と「先代旧辞(せんだいきゅうじ)」を誦習させた。 これらの伝承が後に筆録され、712年に『古事記』として成立する。 『日本書紀』は720年に完成し、いずれも天武天皇の没後の成立となったが、現存する日本最古の歴史書として両書は「記紀」と総称される。
記紀の内容は、天皇家による支配の正統性を示すという点で共通しており、国家の基礎理念を形づくる役割を担っていた。
古事記の特徴
『古事記』は、天皇家の統治の根拠を国内向けに示すために編まれたと考えられている。そのため、神話時代の物語が豊富で、漢字の音訓を巧みに使い分けながら和文的な表現を試みている点が特徴である。文学的な色彩が濃く、国譲りや天孫降臨など、日本神話の核となる物語が簡潔かつ首尾一貫した形で記されている。
また、物語の構成には天武天皇の意志が強く反映されている可能性が指摘されている。時代が進み、朝廷の権力基盤が確立すると、神話中心の『古事記』は次第に重視されなくなったようだ。
しかし、江戸中期に国学者・本居宣長が『古事記伝』を著し、古事記の価値を再評価したことで、その学術的・文化的意義が広く認識されるようになった。
日本書紀の特徴
一方、『日本書紀』は日本の正史として編まれたもので、年代順に記述する「編年体」を採用している。 中国や朝鮮の歴史書を参照し、国際的な視点を取り入れている点も特徴である。
物語の一貫性よりも史料の網羅性を重視し、複数の異伝を併記していることから、合議制・分担制で編纂された可能性が高いとされる。文章は長大な漢文で記され、当時の国際社会──特に中国──に向けて日本の歴史と国家の正統性を示す意図があったと考えられている。その証左として、遣唐使が『日本書紀』を中国へ持参したという伝承も残されている。
◆ 天地開闢
悠久の昔、天と地はまだ分かれず、混沌とした状態にあった。 やがて天と地が分かれる時が訪れ(天地開闢)、世界がはじまる。 天は神々が住まう高天原(たかまがはら)となり、ここから日本神話の物語が静かに動き始める。
高天原に最初に現れたのは、万物の根源とされる「造化三神」と呼ばれる三柱の神である。
- 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
- 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
- 神産巣日神(かみむすびのかみ)
これら三柱は「独神(ひとりがみ)」として姿を現し、すぐに身を隠したとされる。『古事記』では、造化三神は形を持たず、ただ世界の生成に関わる根源的な存在として描かれている。
天地開闢の後の国土はまだ若く、固まらず、水に浮かぶ油のように不安定であった。 クラゲのように漂う国土の中で、葦(あし)の芽が伸びるようにして次の二柱の神が生まれた。
- 宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)
- 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
先述の造化三神にこの二柱を加えた五柱は、別天津神(ことあまつかみ)と呼ばれ、特別な神々として位置づけられている。 いずれも姿形を持たず、世界の生成に関わる根源的な存在として描かれている点が特徴である。
なお、天津神(あまつかみ)とは高天原に属する神々を指し、後に地上世界(葦原中国)に関わる国津神(くにつかみ)と区別されることがある。 この区別は『古事記』・『日本書紀』の神話構造を理解するうえで重要な視点となる。
天祖神社
天祖神社【てんそじんじゃ】は、金鱗湖の湖畔に鎮座している。池の中に建つ鳥居と大きな杉の木(御神木)が目印になっている。この神社は、ヤマトタケルの父、景行天皇の時代に創建されたと伝えられているから、非常に歴史が古い。

(撮影:私の妻)

天祖神社の御祭神は下記の4柱である。
- 天之御中主神【あめのみなかぬしのかみ】(天祖神)
- 素盞鳴男命【たけはやすさのおのみこと】
- 軻遇突智命【ひのかぐつちのみこと】
- 事代主命【ことしろぬしのみこと】
大昔から伝わる伝説によれば、この地にあった大きな湖から水が流れ出て盆地となった際、湖底に棲んでいた一匹の龍が住処を失い神通力を無くして困り果てていた。この地に辿り着いた龍は、天祖神に湖全部とは言わないが安住の地を少しばかり与えてほしいと懇願したらしい。天祖神は、そんな龍の願いを聞き入れて「岳本の池」を残した。

龍は、その池で神通力を取り戻し昇天したという。その残された池が現在の金鱗湖であるとの伝承が残されている。
| 名 称 | 天祖神社 |
| 御祭神 | 天之御中主神(天祖神) 素盞鳴男命 軻遇突智命 事代主命 |
| 所在地 | 由布市湯布院町川上 |
| Link | 天祖神社・金鱗湖 |
高天彦神社
高天彦神社【たかまひこじんじゃ】は金剛山系の白雲岳の麓に鎮座する古社である。葛城山・金剛山系は、古代より「神宿る山」としての信仰を集めてきたという。

高天彦神社には主祭神として高皇産霊神【たかみむすひのかみ】が祀られている。高天彦神社には、高皇産霊神のほかに市杵島姫命【イチキシマヒメ】(宗像三女神の一柱)と菅原道真が祀られているが、この二柱の神さまが合祀されたのはかなり後世のことであるという。

高天【たかま】の広大な大地は、日本神話の天孫降臨の舞台となったところではないかと言い伝えられている。一般的には、天孫降臨の舞台は「高千穂の峰」 (宮崎県)とされているが、金剛山(奈良県/大阪府)にもその伝説が残されているという。

金剛山腹の台地の一帯は、天照大御神が統治した天上界 「高天原」【たかまがはら】の伝承地となっている場所であるという。高天原とは、日本神話において天照大御神をはじめとする天津神【あまつかみ】が住むとされた場所である。高天彦神社は、神代からの永い信仰の歴史と由緒を持つ地に鎮座する神社である。

ヤマト王権誕生の地とされる奈良盆地を眼下に見下ろす場所に高天彦神社が鎮座していることからも、この地が天津神が住む高天原であったと考えても不思議なことではないように思われる。

大神神社【おおみわじんじゃ】(桜井市)と同じように高天彦神社の御神体は山(白雲岳)であり、本殿は建造されていない。

神社の境内には神聖な「磐座」【いわくら】が鎮座している。この磐座は御神体山である白雲岳の中腹にあった磐座を神社創建の際に移されたものであるという。太古の昔には、山にあったこの磐座の周辺(聖林)で祭祀が執り行われていたと伝わっている。

主祭神の高皇産霊神は、大和朝廷が成立する以前の時代にこの山麓一帯を中心に居住し、葛城王朝を築いたとされる有力豪族・葛城氏の祖神であったと伝わっている。高天彦神社が葛城氏ゆかりの神社とされる所以である。
| 名 称 | 高天彦神社 |
| 御祭神 | 高御産巣日神 |
| 所在地 | 奈良県御所市北窪158 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 高天彦神社 | 御所市 |
大元神社
大元神社は、「別天津神」と呼ばれる特別な五柱の神々(天御中主神【アメノミナカヌシノカミ】、高御産巣日神【タカミムスビノカミ】、神産巣日神【カミムスビノカミ】、天常立神【アメノトコタチノカミ】、国常立神【クニノトコタチノカミ】)を祀る神社である。

| 名 称 | 大元神社 |
| 御祭神 | 天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神 天常立神 国常立神 |
| 所在地 | 八幡浜市若山6番耕地186 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 大元神社 « 愛媛県神社庁 |
◆ オノゴロ島の誕生
神世七代の神々の時代が続き、その最後に登場するのがイザナギとイザナミの二柱である。ここから、国土の生成を語る「国産み」の神話が始まる。
イザナギは『古事記』では「伊邪那岐神」、『日本書紀』では「伊弉諾神」と記される。 イザナミは『古事記』では「伊邪那美神」、『日本書紀』では「伊弉冉神」と表記される。 両書で表記は異なるが、国産み・神産みを担う重要な神として位置づけられている点は共通している。

天上の神々(天津神)は、まだ固まらず漂っている国土を見て、イザナギとイザナミに「この漂う国を固め、形を整えなさい」と命じ、天の沼矛(あめのぬぼこ)を授けた。
二柱は天の浮橋(あまのうきはし)に立ち、天の沼矛を海へ差し入れてかき混ぜた。 矛を引き上げると、先端から滴り落ちた塩の雫が積もり重なり、やがて島となった。 これが、神話における最初の島──オノゴロ島である。
イザナギとイザナミはオノゴロ島に降り立ち、天御柱(あめのみはしら)を立て、広い神殿を築いた。 ここから二柱は、島々を生み出す「国産み」、そして多くの神々を生み出す「神産み」へと物語を進めていく。
オノゴロ島は、国産み神話の起点であり、日本列島生成の象徴的な場所として『古事記』の中でも特に重要な位置を占めている。

自凝神社
自凝神社【おのころじんじゃ】は、淡路島の沼島に位置し、イザナギとイザナミの二神の「国生み」ゆかりの神社である。

沼島は、島全体がイザナギとイザナミによる「国生み」の際、「天の沼矛」【あめのぬぼこ】の先から滴り落ちたしずくが凝り固まってできたという「オノコロ島」だとされる場所の一つであるとされる。

自凝神社の創建については不明であるが、小さな祠であった自凝神社を大正11年(1922年)頃に沼島出身の岩田なつ氏が浄財を集め、現在の社殿を完成させたと伝わっている。

自凝神社はイザナギとイザナミの二神を祀る神社で、神社が鎮座する山全体を沼島の人々は「おのころ山」と呼んで山を御神体とみなして山裾の海岸「水の浦」から礼拝していたという。

社殿に向かって続く石段は、まるで天に届くかのようにまっすぐに伸びている。この石段はかなりの急勾配であり、夏の暑い日に登るのは体力的に結構疲れる。

この石段を登り切った先に拝殿があり、その奥に本殿が鎮座している。拝殿横の坂道を少し登った所にはイザナギとイザナミの二神の石像が建立されている。

| 名 称 | 自凝神社 |
| 御祭神 | 伊邪那岐神 伊邪那美神 |
| 所在地 | 兵庫県南あわじ市沼島73 |
| Link | 沼島 おのころ神社(自凝神社) |
自凝島神社
自凝島神社【おのころじまじんじゃ】は、古代の御原入江の中にあってイザナギとイザナミの「国産み」の聖地と伝えられる丘にあり、古くから「おのころ島」と呼ばれ、親しまれ、崇敬されてきたという。

記紀に記載された日本神話によれば、神代の昔、国土創世の時、二神は天の浮橋に立ち、天の沼矛を持って海原をかき回すと、その矛より滴る潮がおのずと凝り固まって島となった。この島が自凝島【おのころじま】であるとされる。

神社の鎮座する場所が「国産み」でつくり上げた最初の国土、淤能碁呂【おのころじま】であるといわれる。

イザナギとイザナミの二神はこの島に降り立ち、八尋殿【やひろでん】を建て、先ず淡路島を造り、次々と大八洲【おおやしま】(日本列島)を拓いていったとされる。

自凝島神社の境内には、せきれい石(鶺鴒石)と呼ばれる石があり、つがいのセキレイが止まり、二神に「交【とつぎ】の道」を教えたとされている。

自凝島神社には、イザナギとイザナミの二神と菊理媛命【キクリヒメノミコト】が合祀されている。菊理媛命は、泉平坂【よもつひらさか】で相争う二神を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。

勿論、イザナギとイザナミも夫婦和合、 安産祈願の神として知られ、多くの神様を生んだことから子授かりのご利益があるとされる。
| 名 称 | 自凝島神社 |
| 御祭神 | 伊邪那岐神 伊邪那美神 菊理媛命 |
| 所在地 | 南あわじ市榎列下幡多415 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | おのころ島神社 |
◆ 国産み
イザナギは、イザナミとともに日本の国土を生み出した神であり、島々や自然界を創造したことから「殖産の神」として信仰される。また、黄泉国から戻った際に初めて禊(みそぎ)を行ったことから、厄除け・浄化の神としても知られている。
イザナミはイザナギの妻であり、多くの神々を生んだことから子宝・安産の神として信仰される。一方で、火の神・軻遇突智(かぐつち)を産んだ際に火傷を負って亡くなり、黄泉国の主宰神「黄泉津大神(よもつおおかみ)」としての側面も持つ。
イザナギとイザナミは、日本神話における最古の夫婦神であり、多くの神々を生み出したことから夫婦和合・縁結びの神としても広く崇敬されている。
二柱による「国産み」の順序は、『古事記』によれば次の通りである。 淡路島を最初に生み、続いて四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、そして本州(大八島国)を生み出したとされる。 これらの島々が「大八島国(おおやしまのくに)」として日本列島の原型となる。
◆ 神産み
「国産み」を終えたイザナギとイザナミは、次に多くの神々を生み出す「神産み」に入る。 しかし、イザナミは火の神・軻遇突智(かぐつち)を産んだ際に大火傷を負い、そのまま命を落としてしまう。
深い悲しみに沈んだイザナギは、怒りのままに軻遇突智を斬り殺し、その血や身体からさらに多くの神々が生まれた。 その後、イザナギは黄泉国へイザナミを迎えに行くが、再会は叶わず、二柱は永遠の別れを迎える。
黄泉国から戻ったイザナギは、穢れを祓うために禊を行う。 この禊の際にも多くの神々が誕生し、最後に生まれたのが「三貴神(さんきしん)」と呼ばれる次の三柱である。
- 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
- 月読命(つくよみのみこと)
- 須佐之男命(すさのおのみこと)
天照大御神の登場により、高天原の統治が確立し、神々の世界に秩序が生まれる。 そして、天照大御神の子孫が地上へ降りる「天孫降臨」へと物語は進み、地上世界にも「国造り」の機運が芽生えていく。
伊弉諾神宮
伊弉諾神宮【いざなぎじんぐう】は、日本最古の神社の一つで、伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)の二神を祀る神社である。

記紀には、「国生み」と「神産み」を果たしたイザナギが、御子神の天照大御神(アマテラス)に高天原の統治を委譲し、淡路島の多賀の地に「幽宮」を構へて余生を過ごしたと記される。

その住居跡に御陵が営まれ、聖地として日本最古の神社が創始されたのが、伊弉諾神宮の起源であるとされる。地元では「いっくさん」と呼ばれ、日之少宮・淡路島神・多賀明神・津名明神として崇められたという。

現在の本殿の位置は、明治時代に後背の御陵地を整地して移築されたもので、それ以前は、禁足の聖地であったという。御陵を中心とする神域の周囲には濛が巡らされたと伝えられ、正面の神池や背後の湿地はこの周濛の遺構とされる。

大半の建造物は、明治9年から同21年に官費で造営されたものであるが、神輿庫及び東西の御門は、旧幕時代の阿波藩主の寄進によるものであるという。

境内の広さは、約15,000坪と広大である。江戸時代の地誌にも「二丁四方の社地を領した」と記されていたという。

「丁」は「町」の略字で、尺貫法の長さを表す単位である。1町=約109.09mとして換算すれば、一辺2町 の正方形の面積は、約47,603平方メートル=約14,400坪となるので、広大な神域を有していたことが分かる。
| 名 称 | 伊弉諾神宮 |
| 御祭神 | 伊邪那岐神 伊邪那美神 |
| 所在地 | 兵庫県淡路市多賀 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 伊弉諾神宮 |
熊野本宮大社
熊野本宮大社は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の中心、全国に4700社以上ある熊野神社の総本宮である。

御祭神は、熊野三山に共通する熊野十二所権現と呼ばれる十二柱の神々である。 奈良時代より神仏習合を取り入れ、御祭神に仏名を配するようになったとされる。

熊野本宮大社の主祭神は、熊野三山の他二社とは異なる家都美御子大神(けつみみこのおおかみ=素戔嗚尊(スサノオノミコト))であるが、本宮の上四社の第一殿と第二殿にはそれぞれ伊邪那美神(夫須美大神)と 伊邪那岐神(速玉大神)が祀られている。
| 名 称 | 熊野本宮大社 |
| 御祭神 | 家都美御子大神 (=素戔嗚尊) 伊邪那美神(夫須美大神) 伊邪那岐神(速玉大神) 熊野十二所権現 |
| 所在地 | 和歌山県田辺市本宮町本宮 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 熊野本宮大社 |
上色見熊野座神社
上色見熊野座神社【かみしきみくまのいますじんじゃ】の御祭神は、伊邪那岐神と伊邪那美神の二神である。

阿蘇大明神の健磐龍命【たけいわたつのみこと】の荒魂と石君大将軍【いわぎみたいしょうぐん】も祀られている。

創設は相当古く、紀州熊野より移したものと云う。南郷の総鎮守として祀られてきたが、従前の建物は天正年間の兵火により焼失したという。

現在の社殿は、約300年前の享保七年(1723年)に建立されたものであるという。

上色見熊野座神社・社殿の背後の山腹にはパワースポットとして知られる「穿戸岩」【うげといわ】がある。
| 名 称 | 上色見熊野座神社 |
| 御祭神 | 伊邪那岐神 伊邪那美神 阿蘇大明神 (健磐龍命)の荒魂 石君大将軍 |
| 所在地 | 熊本県高森町上色見2619 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 上色見熊野座神社 | 高森町 |
◆ 天岩戸神話
神代の昔、天上には神々が住まう高天原があった。 そこには太陽の神・天照大御神(アマテラス)、その弟である須佐之男命(スサノオ)、そして多くの神々が暮らしていた。
しかし、スサノオは荒ぶる性質が強く、田の畦を壊したり、馬の皮を逆剥ぎにしたりと、度を越した乱暴を繰り返した。 その行いに心を痛めたアマテラスは、ついに天岩戸と呼ばれる洞窟へお隠れになってしまう。
太陽の神が姿を隠すと、世界はたちまち闇に包まれた。 光が失われ、植物は育たず、動物は弱り、人々の生活は困難を極めた。 高天原も葦原中国(地上世界)も、深い混乱に陥った。
困り果てた八百万の神々は、天安河原に集まり、アマテラスを岩戸から再び迎え出す方法を相談した。 さまざまな試みが行われたが、どれも成功しなかった。
そこで、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が招霊の木の枝を手に持ち、岩戸の前で舞い始めた。 その周囲では神々が大いに騒ぎ、笑い、祝祭のような雰囲気をつくり出した。
外の騒ぎを不思議に思ったアマテラスは、天岩戸の扉を少しだけ開け、外の様子を覗こうとした。 神々は「あなた様よりも美しく立派な女神が現れたので、これからお連れします」と告げ、鏡に映したアマテラスの姿を示した。
アマテラスは、それが自分自身の姿だとは気づかず、もう少しよく見ようと扉をさらに開いた。 その瞬間を逃さず、思兼神(オモイカネノカミ)がアマテラスの手を引き、手力男命(タチカラヲノミコト)が岩戸を力強く開け放った。
こうしてアマテラスは天岩戸から再び姿を現し、世界には光が戻った。 闇は払われ、植物は再び芽吹き、世の中は平和を取り戻した。
この出来事を受けて、スサノオは自らの行いを深く反省し、高天原を離れて出雲国(現在の島根県)へ向かった。 その地で彼は八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、英雄としての新たな物語を残すことになる。
天岩戸神社
天岩戸神社は、日本神話(記紀)の中に書かれている天照大御神がお隠れになった天岩戸と呼ばれる洞窟を御神体として祀っており、天岩戸神話の舞台となった場所である。

岩戸川をはさんで西本宮と東本宮が鎮座し、両社とも、天照大御神を御祭神として祀っている。御神体である「天岩戸」は、西本宮から拝観することができる(要申込)。天照大神が岩戸隠れした際、天鈿女命が手に持って踊ったとされるのが 招霊(おがたま)の枝であるが、境内にはおがたまの木がある。

川上には八百万の神々が集まって、相談したとされる大洞窟、天安河原がある。天安河原は、天岩戸神社西本宮から徒歩約10分のところにある。別名「仰慕ヶ窟」【きょうぼがいわや】とも呼ばれる。いつの頃からか祈願する人たちの手によって石が積まれるようになり、神秘的かつ幻想的な雰囲気を漂わせている。

| 名 称 | 天岩戸神社 |
| 御神体 | 「天岩戸」と呼ばれる洞窟 |
| 御祭神 | 天照大御神 |
| 所在地 | 宮崎県高千穂町 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 天岩戸神社 |
伊勢神宮
日御碕神社
日御碕神社は、下の本社「日沉宮【ひしずみのみや】」と上の本社「神の宮」の上下二社からなる。両本社を総称して「日御碕神社」と呼ぶ。

日本神話で有名な二柱の神様(天照大御神と須佐之男命)が祀られ、厄除けや縁結びをご利益とした霊験あらたかな神社として人々の信仰を集めている。

楼門をくぐると正面に下の本社の日沉宮【ひしずみのみや】が見える。日沉宮には須佐之男命の姉の天照大御神が祀られている。

この日沉宮は、「伊勢大神宮は日の本の昼の守り、出雲の日御碕清江の浜に日沈宮を建て日の本の夜を守らん」との神勅により祀ったのが始まりと伝わる。つまり、伊勢神宮が日本の昼を守るのに対し、日御碕神社は日本の夜を守るという意味である。

当初はこの神勅の通り、近くの「清江の浜」の経島【ふみしま】で天照大御神を祀っていたが、須佐之男命の孫である天葺根命【アメノフキネノミコト】が経島に行った際に天照大御神が降臨し、「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」との神勅があり、現在の地で祀ることになったという。

楼門をくぐり、右手の小高い場所には上の本社「神の宮」があり、須佐之男命が祀られている。

須佐之男命が根の国(黄泉国)より「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏葉は風に舞いこの神社背後の「隠ヶ丘」に止まったという。そのため天葺根命がこの地に須佐之男命を祀ることにしたと伝わる。

| 名 称 | 日御碕神社 |
| 御祭神 | 天照大御神(アマテラス) 須佐之男命(スサノオ) |
| 所在地 | 出雲市大社町日御碕455 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 日御碕神社【出雲観光協会公 |
◆ ヤマタノオロチ退治
天照大御神の怒りを買い、天津神の審判によって高天原を追放された須佐之男命(スサノオ)は、葦原中国の出雲国へと降り立った。 高天原では乱暴者として知られていたスサノオだが、ここから彼は大きく姿を変え、英雄としての物語を歩み始める。
出雲国でスサノオが出会ったのは、毎年娘を一人ずつ奪われ、最後の娘・櫛名田比売(クシナダヒメ)を目前にして嘆き悲しむ老夫婦であった。 その原因こそが、八つの頭と八つの尾を持つ巨大な怪物──八俣大蛇(ヤマタノオロチ)である。
スサノオは、クシナダヒメを妻に迎えることを条件にオロチ退治を引き受けた。 老夫婦に強い酒(八塩折の酒)を造らせ、八つの門に酒を満たした桶を置き、オロチを酔わせる策を講じた。
やがて現れたオロチは酒の匂いに誘われ、八つの頭をそれぞれの桶に突っ込み、深く酔いしれた。 その隙を逃さず、スサノオは十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いてオロチを切り伏せた。 尾を斬ったとき、剣の刃が欠けたため不思議に思い、尾を割いてみると、中から見事な太刀が現れた。
スサノオはこの太刀を天照大御神に献上した。 この太刀こそが後に「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれ、三種の神器の一つとして皇室に伝わる神剣である。
オロチ退治を成し遂げたスサノオは、乱暴者の神から一転して、民を救う英雄神としての姿を確立した。 そしてクシナダヒメを娶り、新たな物語が静かに始まっていく。
須我神社

櫛名田比売命と結婚した須佐之男命は、一緒に住む新居を造営する場所を探して、出雲の須我の地(島根県雲南市大東町須賀)にやってきたとされる。この地に造営したのが須我神社である。

須我神社は、古事記・日本書紀に記載されている須賀宮【すがのみや】であり、日本初之宮【にほんはつのみや】とされている。

須佐之男命と櫛名田比売命は、新居(須賀神社)で多くの子をなし、大国主命【オオクニヌシノミコト】(出雲大社の御祭神)もその御子のお一人とされている。

暴風雨を司る須佐之男命は、その力強さが転じて「厄もなぎ払う」という意味で、厄除けのご利益がある神とされる。多面性のある神でもあり、英雄的側面から武の神としても崇められる。

須我神社の奥宮として、須佐之男命、櫛名田比売命、清之湯山主三名狭漏彦八島野命(須佐之男命と櫛名田比売命の御子)の三神が祀られている岩座が夫婦岩である。
大きさの異なる2つの大きな岩が寄り添うように並んでおり、その前方に小さな岩が一つ鎮座している。

須佐之男命が須賀の地で新居を造営中、美しい積乱雲の立ち昇るのを見て詠んだのが次の和歌である。これが日本で最古の和歌であるとされており、須賀の地が「和歌発祥の社」と呼ばれる由縁にもなっている。
八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに
八重垣つくる その八重垣を

なお、この和歌の中の「出雲」が出雲の国名の起元であり、「八雲立つ」は「出雲」の枕詞であるという。

| 名 称 | 須我神社 |
| 御祭神 | 須佐之男命 櫛名田比売命 |
| 所在地 | 雲南市大東町須賀260 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 須我神社 | 日本初の宮 |
八重垣神社

八岐大蛇【ヤマタノオロチ】を退治した後、須佐之男命と櫛名田比売命は、この地(八重垣神社)で結婚したとの伝承があることから、縁結びの神社としての信仰を集めている。

須佐之男命と櫛名田比売命は、出雲大社の御祭神、大国主命の両親であるとされることから(系譜を見ると実際は違うように思うが)、出雲の縁結びの大親神として、夫婦円満や良縁結びにご利益があると言われている。


八重垣神社の収蔵庫に納められている平安末期の板絵神像は神社の障壁画としては最古のものといわれ、重要文化財に指定されている。

全3面の内、櫛名田比売命を描いたとされる壁画が最も保存がよく、匂うような肌と髪、鮮やかな紅の唇など数百年を経たとは思えないほどだという。

八重垣神社は櫛名田比売命が、八岐大蛇の難を避けるために避難したといわれる場所であるとの伝承もある。

八重垣神社の裏手の小さな森の中に天鏡神社と鏡の池がある。

鏡の池では、和紙に硬貨を乗せて池に浮かべ、それが沈むまでの距離と時間で様々な縁を占う「縁占い」が若い女性に大人気であるという。恋愛成就の最強パワースポットの一つともいわれる。
| 名 称 | 八重垣神社 |
| 御祭神 | 櫛名田比売命 須佐之男命(スサノオ) |
| 所在地 | 島根県松江市佐草町227 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 【公式】八重垣神社 |
須佐神社
須佐神社【すさじんじゃ】は、『出雲国風土記』にも登場するほどの歴史のある神社であり、島根県中部を南北に流れる神戸川の支流、須佐川のほとりに位置する。

全国には須佐之男命ゆかりの神社が数多くあるが、須佐神社は唯一、須佐之男命の御魂を祀る神社である。
御祭神は、須佐之男命と妻である櫛名田比売命と、そしてその両親である足摩槌命【アシナズチノミコト】と手摩槌命【テナヅチノミコト】である。

須佐神社は、『風土記』や『延喜式』でも確認できるほどの歴史のある神社であり、本殿は1861年(文久元年)建築の大社造りで県の文化財にも指定されている。

この地は日本神話の中で八岐大蛇を退治した英雄・須佐之男命に関わりが深い。

『出雲国風土記』には、須佐之男命がこの地に来て最後の開拓をし、「この国は小さい国だがよい国だ。自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたと記されているという。

出雲の国にあっては小さな神社の部類に入るが、境内は神秘的な雰囲気が漂い、日本一のパワースポットとしてメディアで紹介されたこともあり、参拝者の注目を集めている神社である。

ご利益は良縁・子孫繁栄・家内安全・諸障退散などとされる。
| 名 称 | 須佐神社 |
| 御祭神 | 須佐之男命の御魂 |
| 所在地 | 島根県出雲市佐田町須佐730 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 須佐之男命を祀る須佐神社 |
素鵞社(出雲大社)

素鵞社【そがのやしろ】は、出雲大社・御本殿の北側にある。素鵞社の御祭神は素戔嗚尊【スサノオノミコト】で、八岐大蛇【ヤマタノオロチ】を退治したことでも有名な神で、天照大御神【アマテラスオオミカミ】の弟神である。大国主命の親神でもある。
稲佐の浜で採取した砂は素鵞社の左右奥側の三か所にある砂場に奉納し、代わりの砂をそこから拝領するのが参拝の作法となっている。
| 名 称 | 素鵞社(出雲大社) |
| 御祭神 | 素戔嗚尊(スサノオ) |
| 所在地 | 島根県出雲市 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 出雲大社【公式サイト】 |
八坂神社
八坂神社【やさかじんじや】は、素戔嗚尊命【スサノオノミコト】を御祭神とする神社で、全国各地に約2,300社もあるという。総本社は、八坂神社(京都市)で、「祇園さん」として古くより京都の人々に親しまれてきた。

平安時代初期に都で流行した疫病による大災厄の発生を政治的に失脚して処刑された人の怨みによる崇りであろうと当時の人々は考えたようだ。

最初はその御霊を祭ったが、怒りを鎮められなかった(すなわち 災厄を回避することができなかった)ので、より強い神仏が求められた。

そこで日本神話で 八岐大蛇 (ヤマタノオロチ=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらしたとされる素戔嗚尊命を祭ったのが起源とされている。

災厄を鎮める神様として全国的に知られ、信仰が厚い。日本三大祭の一つとして有名な祇園祭は、疫病が鎮まるようにとの祈りを込めて約1150年前(平安時代)に始まった八坂神社の祭礼であるとされる。

八坂神社の主祭神・素戔嗚尊は、往古牛頭天王【ごずてんのう】とも称し、また薬師如来を本地仏として、人々の疫病消除の祈りを聞き届け、多くの祈りはやがて祇園信仰となった。

八坂神社では今も祭礼を通して氏子の暮らしに息づく祇園信仰を要として、神仏が相和して人々の祈りに応えた時代に照らしながら、人々の心豊かな生活に寄り添っているという。


八坂神社の境内には本殿以外に多くの社が鎮座しており、中でも縁結びの神さまとして知られる大国主命を祀る大国主社には女性の参拝客が絶えず参拝していた。八坂神社はいつも多くの参拝者で混雑しており、人物を入れずに写真を撮ることはできない。
| 名 称 | 八坂神社 |
| 主祭神 | 素戔嗚尊(スサノオ) |
| 所在地 | 京都市東山区祇園町北側625 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 八坂神社 (yasaka-jinja.or.jp) |
◆ 因幡の白兎
「因幡の白兎」の神話は、『古事記』の中でも特に親しまれている物語であり、ここで人気の神・大国主神(おおくにぬしのかみ)が初めて本格的に登場する。
物語は、和邇(わに)──『古事記』ではサメのこと──をだまして海を渡ろうとした白兎が、怒りを買って皮を剝がされてしまう場面から始まる。 苦しむ白兎の前を、八十神(やそがみ)と呼ばれる兄弟神たちが通りかかるが、彼らは白兎に誤った治療法を教え、さらに傷を悪化させてしまう。
その後に現れたのが、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)──後の大国主神である。 大穴牟遅神は白兎に正しい治療法を教え、白兎は元の姿に戻ることができた。
実はこの白兎は「兎神(うさぎのかみ)」と呼ばれる神であり、感謝のしるしとして大穴牟遅神に次のような予言を告げる。
「八十神の兄弟神たちは八上比売(やがみひめ)を得ることはできないでしょう。 八上比売はあなたを選ぶでしょう。」
兎神の予言どおり、八上比売は兄弟神たちの求婚を退け、「私はあなた方の言うことは聞きません。大穴牟遅神と結婚します。」 と答えた。そして、八上比売は本当に大穴牟遅神と結ばれることになる。
この物語は、大国主神が「優しさ」と「誠実さ」によって運命を切り開いていく象徴的な場面であり、後に国造りを担う神として成長していく物語の序章でもある。

『古事記』には大穴牟遅神【オオナムチ】(=大国主命)が気多之前で兎を助けたことになっているが、この「気多之前」という地名は美しい白兎海岸の西に突き出ている岬の名称であるという。

この気多之前 の岬から150m沖には、古事記に登場する「淤岐ノ島」もある。想像していたより案外近い距離にある。白兎はきっと全く泳げなかったのだろう。それとも地殻変動で神代よりも近くなったか?

白兎神社
白兎神社【はくとじんじゃ】は、白兔神(兎神)を祀る神社であると共に保食神【うけもちのかみ】を合祀する。創建の由緒は不詳であるが、かつては「兎の宮」・「大兎大明神」・「白兔大明神」とも呼ばれたという。
白兔神(兎神)は、古事記の日本神話に登場する「因幡の白兎」のことで、その神話から、皮膚病に霊験のある「医療の神」として信仰されるほか、大国主神と八上比売との婚姻を取り持ったことから「縁結びの神」として信仰されている。

現在の本殿は明治時代に再建されたものである。鎮座地は身干山【みほしやま】と呼ばれる丘で、「因幡の白兎」が身を乾かした山と伝えられる。境内には白兎が体を洗ったという「御身洗池」がある。御身洗池は旱天や豪雨のときでも水位の増減がないとされ「不増不減の池」とも呼ばれている。
| 名 称 | 白兎神社 |
| 主祭神 | 白兔神(兎神) |
| 所在地 | 鳥取市白兎603番地 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 白兎神社 | 因幡の白うさぎ |
◆ 根の国への訪問
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、因幡の八上比売(やがみひめ)と結婚したことがきっかけで、八十神(やそがみ)と呼ばれる兄弟神たちの嫉妬と迫害を受け、二度も命を奪われてしまう。 母神の助けによって蘇生したものの、兄弟神の執拗な迫害は止まらず、大国主神はついに逃れるようにして須佐之男命(スサノオ)が治める「根の国」へ向かうことになる。
根の国で大国主神は、スサノオの娘・須勢理毘売(すせりびめ)と出会い、互いに心を寄せ合い結ばれる。 しかし、スサノオは大国主神に数々の試練を与えた。 寝所には毒蛇やムカデを放ち、原野では火責めに遭わせるなど、命を落としかねない厳しい試練が続いた。 それでも大国主神は、須勢理毘売の助けや、火責めの際にはネズミの導きによって危機を乗り越えていく。

やがて試練に耐えかねた大国主神は、須勢理毘売とともにスサノオのもとから脱出する。 その後を追ってきたスサノオは、大国主神の覚悟と才覚を認め、叱咤激励しながら国造りの方法を授けた。 さらに、須勢理毘売との結婚を正式に許し、大国主神を後継者として送り出す。
大国主神は根の国で授かった教えに従い、八十神を服従させ、須勢理毘売を正妻として迎えた。そして出雲の地に大社を築き、国造りに着手する。 この物語は、大国主神が「国土経営の神」としての役割を確立していく重要な場面であり、出雲神話の核となる章である。

出雲大社

出雲大社の参拝方法は、2礼4拍手1礼が決まりである。一般的には2礼2拍手1礼であるが、出雲大社は他とは違うのである。この参拝方法と作法に注意して、出雲大社の各社を参拝した。

大社【たいしゃ】 という社号は、格式の高い地域信仰の中核をなす大きな神社を指す社号として知られている。かつては単に大社【おおやしろ】といえば出雲大社のことを指していたという。

奈良時代・平安時代の昔から大社と銘記されてきた神社は、出雲大社が唯一であり、大社といえば「いづもおおやしろ」のことを指していたという。主祭神である大国主命の住居が「ミヤシロ」と呼ばれていたのが由縁である。大社の本家・本元は出雲大社であることは神話の時代から歴史的に相違なさそうである。

出雲国(現島根県)が「神の国・神話の国」として知られているのは、神々を祀る古い神社が、現代においても至る処に鎮座しているからであるという。その中心が大国主命をお祀りする出雲大社であるのは誰もが納得することであろう。

荘厳な社は、古来、天日隅宮を始め、様々な名称で称えられてきたが、現在は出雲大社【いづもおおやしろ】と呼ばれている。尚、出雲大社から分社した他の出雲大社は「いずもたいしゃ」と読むが、ここの出雲大社(島根県)だけは「いずもおおやしろ」と称することだけはしっかりと覚えておこう。

出雲大社の御祭神は、勿論、大国主命である(出雲大社のHPでは大国主大神【オオクニヌシノオオカミ】と表記されているが、ここでは大国主命で統一する)。 大国主命は、広く「だいこくさま」としても慕われ、全国各地でお祀りされている。

大国主命は、今日では広く「えんむすびの神」として人々に慕われているが、この「縁」は「男女の縁」だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い「結びつき」であるという。そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えない「ご縁」を結んでくれているのが大国主命だと信じられてきた。

大国主命が「国づくり」によって築いた国は豊葦原の瑞穂国と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国であったという。

記紀による伝承では、大国主命は「国づくり」で自ら築いた国を大和朝廷の皇祖である天照大御神に還した(国譲り)したことになっている。
天照大御神は、国を譲り受けた代わりに高天原の諸神に命じて宇迦山の麓に壮大なる宮殿を造営させ、その宮殿を天日隅宮【あめのひすみのみや】と称して大国主命の住居として与えたことになっている。この神話が出雲大社の起源とされる。

大国主命には異なる神名が多くある。その一つに所造天下大神【あめのしたつくらししおおかみ】があるが、それは神代に日本人の遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが「国づくり」の大業と呼ばれているものである。

大国主命は「国づくり」の作業のなかで、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きていくために必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えたことになっている。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、それぞれの神名の由来になっていると伝えられている。

| 名 称 | 出雲大社 |
| 主祭神 | 大国主命 |
| 所在地 | 出雲市大社町杵築東195 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 出雲大社 |
◆ 国つくり
大国主神は、神産巣日神(かみむすびのかみ)の子である少名毘古那神(すくなびこなのかみ)とともに、葦原中国(あしはらのなかつくに)の国造りを進めた。 少名毘古那神は、非常に小さな神でありながら、医療・薬・呪術・農耕などに長け、国造りの重要な役割を担ったとされる。 しかし、彼は突然常世国へ去ってしまい、大国主神は深い困難の中に置かれる。
そのとき、大国主神の前に新たな神が現れる。 御諸山(みもろやま)──現在の三輪山──に鎮座する神であり、『古事記』では名を明かさず「現れた神」と記されるが、『日本書紀』では大物主神(おおものぬしのかみ)とされる。 この神は大国主神に協力し、国造りを完成へ導いた。
こうして葦原中国の国造りは成就し、大国主神は国津神(くにつかみ)の盟主として地上世界を統治する存在となった。 天上の天津神に対して、地上の国津神をまとめる大国主神の姿は、日本神話における「二つの世界の均衡」を象徴している。

玉作湯神社
玉作湯神社【たまつくりゆじんじゃ】は、玉造温泉の守り神として崇められている神社である。

玉作湯神社には、櫛明玉命【クシアカルダマノミコト】、大名持命【オオナモチノミコト】(=大国主命)、少彦名命【スクナヒコナノミコト】の三柱の神さまが祀られている。

櫛明玉命は、八坂瓊勾玉【やさかにのまがたま】など宝玉御制作の神で出雲玉作部【いずもたまつくりべ】の祖神として祀られている。玉造は、古代から勾玉【まがたま】や各種玉類の一大生産地であったからである。

一方、少彦名命と大名持命(=大国主命)は、それぞれ玉造温泉の発見および温泉療法など温泉守護の神として祀られている。

少彦名命は、大名持命(=大国主命)の「国造り」に協力した神として記紀に記されており、二柱の神がもっと多くの神社で合祀されているはずである。

「玉作神」と「湯神」を司る神々を祀る神社ということで、神社名が「玉作湯神社」になっていることを知り、興味を抱いた。

境内にある真玉【まだま】(=願い石)は、触れて祈ると願いが叶うとされ、パワースポットとして多くの参拝があるという。

神社前の玉湯川に架かる赤い欄干の宮橋も記念撮影ポイントとして人気がある。

玉造は古代から勾玉や各種玉類の一大生産地であると共に、神の湯・美肌の湯といわれる温泉地として知られる。玉作湯神社は、この地の守り神が鎮座する神社である。
玉作湯神社の鳥居をバックに写真を撮ると良縁に恵まれるという。
| 名 称 | 玉作湯神社 |
| 御祭神 | 櫛明玉命 大名持命(=大国主命) 少彦名命 |
| 所在地 | 松江市玉湯町玉造508 |
| Link | 玉作湯神社 | しまね観光 |
大神神社

大神神社【おおみわじんじゃ】は、三輪山【みわさん】の山麓に位置する、日本最古の神社で、三輪山を御神体とする。大和国の一宮【いちのみや】である。

一宮とは地域の中で最も社格の高い神社を指す。三輪山信仰は縄文時代または弥生時代にまで遡るかも知れないと言われている。

主祭神は大物主大神【おおものぬしのおおかみ】である。また、大神神社には大己貴神【おおむなちのかみ】(=大国主神)と少彦名神【すくなひこなのかみ】も祀られている。

大国主神と少彦名神は古事記や日本書紀にも登場する神で、二神が協働して出雲で「国造り」をしたとされる。途中で少彦名神が去ってしまい意気消沈している大国主神の前に現れたのが大物主大神であったことが記紀に記載されている。

大物主大神は、国造りを成就させるために三輪山に祀られることを望んだと記されている。

この伝承は大物主大神が大国主神の別の御魂として顕現され、三輪山に鎮まられたものだと理解されているようだ。

| 名 称 | 大神神社 |
| 主祭神 | 大物主大神 |
| 所在地 | 奈良県桜井市三輪1422 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 三輪明神 大神神社 |
◆ 国譲り
大国主神が葦原中国の国造りを完成させると、天上の高天原では新たな決断が下された。 天照大御神は、地上世界の統治を自らの子孫である天孫に委ねるべきだと考え、葦原中国の統治権を譲るよう大国主神に要求したのである。 これが「国譲り」の神話である。
大国主神は、まず自らの子である事代主神(ことしろぬしのかみ)に意向を尋ねた。 事代主神は天照大御神の申し出を受け入れ、国を譲ることに同意した。 しかし、もう一人の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)は承諾せず、抵抗の姿勢を示した。
そこで高天原から派遣されたのが、武神・建御雷神(たけみかづちのかみ)である。 建御名方神は建御雷神に力比べを挑むが、圧倒的な力の差に敗れ、ついには国譲りを受諾した。 建御名方神はその後、信濃の地へ退き、諏訪大社の祭神として祀られることになる。
こうして大国主神は、葦原中国の統治権を天照大御神へと譲り渡した。 大国主神自身は出雲の地に留まり、幽冥界(目に見えない世界)の主宰者としての役割を担うこととなる。 この国譲りは、日本神話における「天孫降臨」へとつながり、天皇家の正統性を支える重要な物語として位置づけられている。
美保神社
美保神社の参拝方法は2礼2拍手1礼。出雲大社とは違う一般的な参拝方法である。

美保神社(島根県松江市)は、事代主命(えびす神)を祀る神社の総本社である。天平5年(733年)編纂の『出雲国風土記』及び延長5年(927年)成立の『延喜式』に社名が記されており、遅くともその時期には美保神社が鎮座していたと推測できる。

境内からは4世紀頃の勾玉の破片や雨乞いなどの宗教儀式で捧げたと考えられる6世紀後半頃の土馬が出土しており、古墳時代以前にも何らかの祭祀がこの地で行われていたと考えられている。

美保神社の御祭神は、事代主命【コトシロヌシノミコト】と三穂津姫命【ミホツヒメノミコト】である。

事代主命は、大国主命の第一の御子神であり、鯛を手にする福徳円満の神、えびす様として知られる。「海上安全、大漁満足、商売繁昌、歌舞音曲(音楽)、学業」の守護神として篤く信仰されている。また、出雲神話・国譲りの段において御父神・大国主命より大変重要な判断を委ねられた尊い神様であると伝わる。

一方、三穂津姫命は、高天原の高皇産霊命【たかみむすひのみこと】 (天地開闢の時に高天原に現れた偉大な神)の御姫神で、大国主神の御后神である。三穂津姫命は、高天原から稲穂を持って降臨され、人々に食糧として配り広められた神様で「五穀豊穣、夫婦和合、安産、子孫繁栄、歌舞音曲(音楽)」の守護神として篤く信仰されている。また、美保という地名は三穂津姫命の御名に縁があると伝えられている。

美保関は、古より海上交通の関所で北前船をはじめ諸国の船が往来し、港として栄えた場所であったという。「関の明神さんは鳴り物好き、凪と荒れとの知らせある」と、船人の口コミで広く伝えられたらしい。船人の美保神社に対する信仰心は非常に篤く、海上安全や諸願成就などの祈願の為、さまざまな地域から夥しい数の楽器が奉納され、この内846点が国の重要有形民俗文化財に指定されている。

奉納鳴物のなかには、日本最古のオルゴールやアコーディオン、鳥取城で登城の時を告げていた直径157cmにもなる大鼕、島原の乱で戦陣に出されたと伝わる陣太鼓、初代荻江露友が所有していた三味線など名器や珍品も数多く含まれているという。

鳴物奉納の信仰は、現代においても続いており、1992年(平成4年)には明治の初頭以来途絶えていた「歌舞音曲奉納」を100年ぶりに復活させている。一流の演奏家が神前に向かって(聴衆に背を向けて)演奏し、聴衆は一切の拍手をしないという独特の音楽祭が開催されたらしい。

| 名 称 | 美保神社 |
| 御祭神 | 事代主命 三穂津姫命 |
| 所在地 | 松江市美保関町美保関608 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 美保神社 | えびす様の総本宮 |
◆ 天孫降臨
大国主神による葦原中国の国造りが整うと、高天原の神々は地上世界の統治を天孫に委ねることを決めた。その天孫こそが、天照大御神の孫にあたる 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) である。こうして、瓊瓊杵尊は日向の高千穂へと降り立つ──これが「天孫降臨」である。
高千穂峰(標高1,574m)は、秀麗な山容を持ち、古来より霊峰として人々の信仰を集めてきた。 その神々しい姿は、天孫降臨の神話が生まれたことを自然に納得させる力を持っている。 この山々を含む霧島連山は、1934年に日本で最初の国立公園として指定されている。
記紀にも、葦原中国を平定した後、瓊瓊杵尊が三種の神器を授けられ、神々を率いて地上へ降臨したと記されている。『古事記』では「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」、 『日本書紀』では「日向の襲の高千穂の峰」「日向のくじひの高千穂の峰」など複数の表現が見られる。いずれにせよ、天孫降臨の地は高千穂一帯であると考えてよい。

天照大御神は太陽神であると同時に、農耕・機織など多様な神格を持つ偉大な神である。 瓊瓊杵尊の名「アマツヒコホノニニギノミコト」のうち、「アマツヒコ」は天津神の子を意味し、「ホノニニギ」は「稲穂が豊かに実る」という意味を持つとされる。
『日本書紀』には、天孫降臨に際し、天照大御神が「高天原の斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けよ」と述べたと記されている。 これは、瓊瓊杵尊が地上に稲作をもたらす存在であることを象徴している。
豊かに実った稲を高く積んだ場所──それが「高千穂」であるという解釈は、記紀が編纂された奈良時代に、稲作が弥生時代以来の基盤産業として重視されていたことを反映している。 天孫降臨は、単なる神話ではなく、稲作文化の定着と国家形成を象徴する物語でもある。
また、須佐之男命(スサノオ)が高天原で田の畦を壊したり、溝を埋めたりした乱暴な行為が記されているのも、稲作がいかに重要な産業であったかを示す一つの象徴といえる。
高千穂神社
高千穂神社の御祭神は、高千穂皇神(たかちほすめがみ)と十社大明神であり、特に農産業・厄祓・縁結びの神として広く信仰を集めている。
高千穂皇神は、次の6柱の神の総称である。
- 瓊瓊杵尊【ににぎのみこと】
- 木花開耶姫命【このはなさくやひめ】
- 彦火火出見尊【ひこほほでみのみこと】
- 豊玉姫命【とよたまひめのみこと】
- 鵜鵝草葦不合尊【うがやふきあえずのみこと】
- 玉依姫命【たまよりひめのみこと】
いずれの神も日本神話(古事記・日本書記)に登場する神々であり、この機会に是非、名前を覚えたいと思う。
一方、十社大明神は、下記の10柱の神の総称とされる。
- 三毛入野命【みけぬのみこと】
- 鵜目姫命【うのめひめのみこと】
- 御子太郎命【みこたろうのみこと】
- 二郎命【じろうのみこと】
- 三郎命【さぶろうのみこと】
- 畝見命【うねみのみこと】
- 照野命【てるののみこと】
- 大戸命【おおとのみこと】
- 霊社命 【れいしゃのみこと】
- 浅良部命【あさらべのみこと】

高千穂神社は、約1900年前の垂仁天皇時代に創建された、高千穂郷八十八社の総社である。
神社本殿と所蔵品の鉄造狛犬一対は国の重要文化財に指定されている。
鎮石(しずめいし)は、垂仁天皇の命により伊勢神宮と高千穂神社に設置された石であり、願いを込めて祈ることで、世の中の乱れや人の悩みが鎮められるといわれている。
また、鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、畠山重忠を代参として天下泰平の祈願をし、皇室発祥の聖地に対する尊皇のまことを表した。畠山重忠の手植えとされる樹齢約800年の「秩父杉」や、二本の杉の幹が一つになった「夫婦杉」が境内で生長している。
| 名 称 | 高千穂神社 |
| 御祭神 | 高千穂皇神 十社大明神 |
| 所在地 | 宮崎県高千穂町 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 高千穂神社( 高千穂町) |
◆ 海幸彦と山幸彦の物語
天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は笠沙御崎で木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と出会い、結婚して三人の子をもうけた。 そのうち、火照命(ほでりのみこと)は海の恵みを司る神で「海幸彦」と呼ばれ、後に隼人阿多君の祖神となる。 一方、火遠理命(ほおりのみこと)は山の恵みを司る神で「山幸彦」と呼ばれ、後に天津日高日子穂穂出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)となり、神武天皇の祖父にあたる。
海幸彦は熟練した漁師であり、山幸彦は狩猟を得意とする狩人であった。 ある日、山幸彦が兄の釣り針を借りて海へ出たが、誤ってそれを失ってしまう。 この小さな出来事が原因となり、兄弟は長く仲違いすることになる。
途方に暮れた山幸彦は、塩椎神(しおつちのかみ)の助けを得て海神の宮へ向かう。 そこで海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘である豊玉毘売(とよたまひめ)と出会い、二人は結ばれる。 海神の宮での生活は穏やかで、山幸彦はそこで釣り針を取り戻すことにも成功する。
やがて山幸彦は地上へ戻り、国を治める役目を担うことになる。 豊玉毘売は山幸彦の子を産むために地上へ産屋を建てるが、その出産の場面は『古事記』の中でも象徴的な場面として知られている。 誕生した子──彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)──は、海神の娘で豊玉毘売の妹である玉依毘売命(たまよりびめのみこと)と結ばれ、二人の間に生まれた子が、後の神武天皇(初代天皇)である。
『古事記』・上巻は、この神武天皇の誕生をもって物語を閉じる。 海幸彦・山幸彦の物語は、兄弟の葛藤から始まり、海神との縁、そして天皇家へとつながる系譜へと続く、日本神話の中でも重要な橋渡しの役割を果たしている。
青島神社
青島神社【あおしまじんじゃ】は、宮崎市にある青島全島を境内地とする神社で、社殿は青島のほぼ中央に鎮座している。
青島神社は、海幸彦と山幸彦の神話に登場する山幸彦、つまり天津日高彦火火出見命【あまつひだかひこほほでみのみこと】を祀っている。
また、山幸彦の妃神である豊玉姫命【とよたまひめのみこと】と、山幸彦を海神宮【わたつみのみや】へ行かせた塩筒大神【しおづつのおおかみ】を合祀している。
元来は海洋に対する信仰によって創祀されたと考えられ、古くから青島自体が霊域として崇められていたという。社伝によれば、山幸彦が海神宮から帰還した際に青島に上陸して宮を建てたとされ、青島神社はその宮跡に創建されたと伝わる。
現在では、青島神社は縁結び、安産、航海安全に御利益がある神社して信仰を集めているという。
| 名 称 | 青島神社 |
| 主祭神 | 天津日高彦火火出見命 (山幸彦) |
| 所在地 | 宮崎市青島2丁目13番1号 |
| Link | 青島神社 |
潮嶽神社
潮嶽神社【うしおだけじんじゃ】は、海幸彦を祀っている日本で唯一の神社として知られる。潮嶽神社の創建については不明であるが、宮崎県南部の人々には長い間影響力を持ち、信仰されてきたという。
海幸彦と山幸彦の神話の後日談として、最終的には山幸彦が海幸彦を小舟で海に追いやったという。海幸彦は、何日も漂流した末に隔絶の地で岸辺に衝突し、その地で余生を過ごしたらしい。
地元の伝承では、その場所が現在の潮嶽神社が鎮座する場所であるという。
| 名 称 | 潮嶽神社 |
| 主祭神 | 海幸彦 |
| 所在地 | 日南市北郷町北河内8901-1 |
| Link | 潮嶽神社 |
鵜戸神宮
鵜戸神宮【うどじんぐう】の本殿は、 日向灘に面した海食崖中腹の海食洞(波の侵食により海食崖に形成された洞窟)内に鎮座している。海食洞の大きさは東西38m、南北29m、高さ8.5mであるというから比較的大きい洞窟と言える。
その洞窟内の本殿に参拝するには崖に沿って作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」となっている。
本殿には主祭神の日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊【ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと】の他に下記の神々が祀られている。
- 大日孁貴【おおひるめのむち】
- 天忍穂耳尊【あめのおしほみみのみこと】
- 彦火瓊々杵尊【ひこほのににぎのみこと】
- 彦火々出見尊【ひこほほでみのみこと】
- 神日本磐余彦尊【かむやまといわれひこのみこと】
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、山幸彦の子、つまりは神武天皇の父にあたる神である。
大日孁貴は、天照大御神の別名で、アマテラスのことである。そして、天忍穂耳尊はアマテラスの子で、ニニギの父にあたる神である。彦火瓊々杵尊は、ニニギで、天孫と呼ばれることがある。彦火々出見尊は、ニニギの子で、山幸彦と呼ばれた神である。最後に、神日本磐余彦尊は、山幸彦の孫にあたり、後に初代天皇となって「神武天皇」と呼ばれる神である。
このように鵜戸神宮には山幸彦のファミリーと言うか、神武天皇に繋がる神々(天照大御神以下の皇祖神)が祀られている。
社伝によれば、本殿が鎮座する岩窟は、豊玉姫【とよたまひめ】が主祭神の日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を産むために建てた産屋があった場所とされる。この洞窟が主祭神が誕生した地であるとされることから、縁結び・夫婦和合・子授け・安産などの信仰を集めているという。
本殿裏にある乳房に似た2つの突起は「お乳岩」と呼ばれ、豊玉姫が綿津見国へ去る時、御子の育児のために左の乳房をくっつけたものと伝えられている。主祭神はそこから滴り落ちるお乳水で作った飴「おちちあめ」を母乳代わりにしたという。現在も安産や育児を願う人々から信仰されているという。
亀石は本殿前にある霊石で、豊玉姫が海神宮【わたつみのみや】から来訪する際に乗った亀が石と化したものと伝わる。石頂に枡形の穴が開くことから「枡形岩」とも呼ばれ、その穴に男性は左手、女性は右手で願いを込めた「運玉」を投げ入れることで願いがかなうといわれている。
境内地を含む周辺の海岸には海食洞や波食棚が多数あり、名勝に指定されている。
| 名 称 | 鵜戸神宮 |
| 主祭神 | 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊 |
| 所在地 | 宮崎県日南市大字宮浦3232 |
| Link | 鵜戸神宮(公式) |
◆ あとがき
天上の神々は地上へ降り立ち、「国作り」を通じて山や海、産業や文化の基盤を形づくった。 その子孫が皇祖として地上世界を治めるようになり、やがて「国譲り」を経て大和国が成立し、天皇を中心とした統一国家が姿を現していく。 この流れこそが、日本神話が描く壮大な歴史観である。
大和国の成立とともに、神々への信仰も体系化されていった。 その過程と天皇家の正統性を物語として描き出したのが、日本最古の歴史書である『古事記』と『日本書紀』──いわゆる「記紀」である。 これらは単なる神話ではなく、古代の人々が世界をどう理解し、どのように国家を形づくろうとしたのかを示す重要な記録でもある。
私はこれまで、記紀について「知っているつもり」になっていたが、実際にはほとんど何も理解していなかったことに気付かされた。 神社仏閣を参拝しながら、御祭神の背景を知らないまま手を合わせていたことを思うと、恥ずかしさと同時に、学び直す楽しさが湧き上がってくる。 今後は参拝する前に、少しでも神々の物語を知っておこう──そう思うようになった。
日本神話の最終章にあたる「海幸彦・山幸彦の物語」にゆかりの神社として、 青島神社、潮嶽神社、鵜戸神宮 が知られている。 いずれも宮崎県に鎮座し、山幸彦と豊玉毘売の物語が息づく地である。
まだ参拝できずにいるが、遠くない将来、ぜひこの三社を訪ねてみたい。 神話を学び直した今なら、きっと以前とは違う景色が見えるはずだ。 神々の物語が宿る地を歩く旅は、これからも静かに続いていく。
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【参考資料】
| ウィキペディア(Wikipedia) |
| 古事記と日本書紀のちがい|なら記紀・万葉 |
| 地図と写真でよくわかる! 古事記(山本明著、西東社) |
| 本居宣長『古事記伝』を読む(神野志隆光著、講談社/文芸) |
| 古事記ゆかり地マップ (pref.nara.jp) |