◆ はじめに
飛鳥京(あすかきょう)は、現在の奈良県高市郡明日香村一帯に営まれていた古代日本の政治の中心地である。
もっとも、飛鳥京は藤原京や平城京、平安京のように碁盤目状の街路を備えた計画都市ではなかった。歴代の天皇(大王)が宮殿を営み、その周辺に政治や祭祀に関わる施設が置かれた地域の総称と考える方が実態に近い。そのため規模も、後の都城に比べればはるかに小さかったと推測されている。
実際、「飛鳥京」という名称から連想されるような大規模な都城の遺構は、これまでの発掘調査では確認されていない。平城京や平安京のように、都市全体の姿を明確に復元できる段階には至っておらず、その実態にはなお不明な点も多い。
しかし一方で、飛鳥宮跡をはじめとする数々の遺跡の発見によって、飛鳥の地が6世紀後半から7世紀にかけて日本政治の中心であったことは疑いない事実となっている。聖徳太子の時代、大化の改新、壬申の乱、そして律令国家建設へ向けたさまざまな改革は、いずれもこの飛鳥の地を舞台として展開された。
飛鳥京とは、後の時代の壮大な都城のような「都市」ではなかったかもしれない。しかし、日本という国の骨格が形づくられた場所であったことは間違いない。飛鳥を訪ねることは、日本国家の原点を訪ねる旅でもあるのである。
飛鳥とはどんな場所だったのか
奈良県高市郡明日香村。飛鳥の地を初めて訪れた人の多くは、その静けさに驚くのではないだろうか。
周囲をなだらかな丘陵に囲まれた盆地には、田園風景が広がり、どこか懐かしい日本の原風景を見ることができる。ところが、この穏やかな土地こそが、約1400年前、日本の政治の中心地であった。
古代の大和盆地には有力豪族たちが本拠を構え、ヤマト王権の活動もこの地域を中心に展開された。飛鳥は交通の要衝であり、周辺には豪族の居館や寺院が集まっていたことから、政治の中枢として発展していったのである。
現在の飛鳥には高層建築も大都市の喧騒もない。しかし、石舞台古墳や飛鳥寺、飛鳥宮跡などを歩いていると、この静かな村が日本の歴史の出発点であったことを実感する。
飛鳥は単なる古都ではない。日本という国家が形を整え始めた特別な場所なのである。
飛鳥は「日本国家誕生の舞台」
飛鳥が特別な意味を持つのは、この地で日本史を動かした重要な出来事が相次いで起こったからである。
7世紀初頭には聖徳太子が推古天皇を支え、冠位十二階や十七条憲法を制定した。さらに遣隋使を派遣し、大陸の進んだ制度や文化を積極的に取り入れようとした。
当時の東アジアでは中国大陸に統一王朝が成立し、強力な中央集権国家が誕生していた。日本もまた、その影響を受けながら国家の仕組みを整えようとしていたのである。
その後、飛鳥では蘇我氏と皇室をめぐる政治的対立が深まり、645年には大化の改新が起こる。中大兄皇子と中臣鎌足らによって進められた改革は、中央集権国家への大きな第一歩となった。
さらに672年には壬申の乱が勃発する。この戦いに勝利した天武天皇は強力な王権を確立し、本格的な国家建設に乗り出した。
飛鳥の歴史を振り返ると、そこには国家形成に必要なあらゆる要素が詰まっている。
政治制度の整備、仏教文化の受容、外交の展開、王権の強化。まさに飛鳥は、日本国家誕生の舞台であったといえるのである。
飛鳥京とはどんな都だったのか
飛鳥京という名称から、多くの人は平城京や平安京のような大規模な都市を想像するかもしれない。しかし実際には、飛鳥京は一つの固定された都ではなかった。
飛鳥の地域には、時代ごとに岡本宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥浄御原宮など複数の宮殿が営まれ、それらを総称して飛鳥京と呼んでいる。
後の平城京や平安京のように都市全体を計画的に整備した都城ではなく、宮殿を中心として政治が行われる形態だったのである。
その背景には、天皇の代替わりに伴って宮を移す慣習があった。また、まだ全国を統治する巨大官僚機構が整備されておらず、固定的な首都を必要としなかった事情もあった。つまり飛鳥京は、都城国家への移行前夜の都であった。
飛鳥を知ることは、「宮の時代」から「都城の時代」への大きな転換を理解することでもある。
飛鳥京に見る国家形成の足跡
飛鳥時代は、日本が本格的な国家へと成長するための準備期間であった。この時代には、中国の律令制度を参考にしながら、戸籍制度や税制、官僚制度などの整備が進められた。後に完成する律令国家の基礎は、すでに飛鳥時代に築かれ始めていたのである。
また、仏教の受容も重要な出来事だった。仏教は単なる宗教ではなく、先進文化や学問、建築技術とともに日本へ伝わった。飛鳥寺の建立はその象徴であり、日本最初期の本格的寺院として今日まで知られている。
さらに、漢字の普及によって文書行政が発達し、国家運営の仕組みも大きく前進した。
こうして飛鳥では、大陸文化を積極的に取り入れながらも、日本独自の国家体制が形づくられていった。
日本は単に中国を模倣したのではない。外来文化を受け入れながら、自らの風土や社会に合わせた国づくりを進めていったのである。
飛鳥京跡を歩く
飛鳥を訪ねる楽しみは、教科書で学んだ歴史を実際の風景の中で感じられることである。
飛鳥宮跡
飛鳥宮跡は、奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の宮殿遺跡である。この地は6世紀後半から7世紀後半にかけて日本政治の中心であり、歴代の大王(天皇)が宮を営んだ場所として知られている。
一般に「飛鳥京跡」と呼ばれる遺跡群は、一つの都城跡を指すものではない。飛鳥地域に営まれた宮殿や官衙(役所)、豪族の邸宅、寺院、工房、庭園などの遺構が広範囲に存在しており、それらを総称して「飛鳥古京跡」と呼んでいる。
飛鳥古京跡には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)をはじめ、飛鳥寺跡、川原寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、水落遺跡など、多くの重要な史跡が含まれている。これらの遺跡は、飛鳥時代の政治・宗教・技術・文化を知るうえで欠かせない貴重な歴史遺産である。
飛鳥古京跡では1959年以降、継続的に発掘調査が行われており、飛鳥宮跡や飛鳥浄御原宮跡などの重要な遺構が確認されている。また、飛鳥京跡苑池は飛鳥時代の宮廷庭園として知られ、国の特別名勝および特別史跡に指定されている。
現在の飛鳥宮跡は広々とした史跡公園として整備されている。往時の建造物は残っていないが、この場所で大王や天皇、豪族たちが国家の重要な政務を執り行い、日本の進むべき道を模索していたことを思うと、実に感慨深い。静かな田園風景の中に立つと、日本国家誕生の鼓動が今なお聞こえてくるようである。
石舞台古墳
飛鳥観光の代表的な史跡である。巨大な石室は圧倒的な存在感を放ち、古代豪族の権勢を今に伝えている。蘇我馬子の墓と考えられていることでも有名である。
飛鳥寺
日本最古級の寺院として知られる。飛鳥大仏は今もなお祀られており、日本への仏教伝来を身近に感じることができる。
甘樫丘
飛鳥の歴史を俯瞰するならぜひ訪れたい場所である。
丘の上から眺める飛鳥の風景は穏やかで美しい。しかし、その景色の中で日本国家の礎が築かれたことを思うと、見える風景もまた違って感じられる。
飛鳥京から藤原京へ
飛鳥は日本国家誕生の舞台であった。しかし国家の成長とともに、従来の宮中心の政治体制では対応できなくなっていく。
律令制度の整備が進み、官僚機構が拡大すると、より大規模で計画的な都が求められるようになった。その結果として誕生したのが藤原京である。
694年、持統天皇は飛鳥から藤原京へ遷都した。藤原京は日本で最初の本格的な都城であり、後の平城京や平安京の原型となった。飛鳥が国家を生み出した都だとすれば、藤原京は国家を運営するための都だったといえる。
飛鳥から藤原京への移行は、日本史における大きな転換点であった。国家形成の時代から、都城国家の時代へ。その第一歩が藤原京の建設だったのである。
◆ あとがき
飛鳥の地を歩いていると、不思議な感覚に包まれる。平城京のような壮大な宮殿群もなければ、平安京のような大都市の面影もない。しかし、この静かな里山こそが日本国家の原点なのである。
聖徳太子が理想を語り、蘇我氏が権勢を振るい、大化の改新が行われ、天武天皇が国家建設を進めた。その舞台となったのが飛鳥だった。
飛鳥京は単なる古代の都ではない。それは、日本という国が歩み始めた場所であり、古代国家形成の舞台そのものなのである。
次回は、飛鳥から受け継がれた国家建設の夢が結実した、日本初の本格的都城「藤原京」を訪ねてみたい。