◆ はじめに
会社員をリタイアして時間にゆとりができてから、私は城跡を訪ねる機会が増えた。各地の城跡を歩くうちに、ふと素朴な疑問を抱くようになった。
「なぜ城は山の上や丘の上に築かれたのだろうか」
「なぜ城によって構造や形がこれほど違うのだろうか」
という疑問である。
結論から言えば、城が山や丘に築かれた大きな理由は、防御力を高めるためである。また、城ごとに形が異なるのは、その土地の地形や時代背景、さらには戦い方の変化に対応した結果であった。
こうした知識を得たあとで城跡を訪ねてみると、それぞれの城に個性があることがよく分かるようになった。
険しい斜面や崖は、それ自体が天然の城壁となる。重い鎧や武器を身につけた兵が急斜面を登るのは容易ではなく、少人数でも大軍を足止めすることができた。
また、高所からは周囲を広く見渡すことができる。敵軍の接近をいち早く察知できるだけでなく、上方から矢や石を用いて攻撃する側が圧倒的に有利であった。
そのため、中世から戦国時代にかけては、防御を最優先とした山城が数多く築かれた。
しかし戦国時代後期になると状況が変わる。大名たちは戦うだけでなく、広い領国を統治し、経済活動を発展させるための拠点を必要とするようになった。
そこで発展したのが平山城である。
平山城は、平野部の小高い丘や台地を利用して築かれ、防御力と利便性を両立していた。さらに江戸時代になると、政治・行政の中心として平城も多く築かれるようになる。
一方で、城の形が一つとして同じにならないのには理由がある。主に次の三つの要素が城の設計を左右した。

● 地形への適応
山城や平山城では、もともとの尾根や谷を利用して防御施設がつくられた。山を削って堀を設けたり、平坦な曲輪(くるわ)を造成したりしながら築城されたため、地形の違いがそのまま城の個性となった。同じ山が存在しないように、同じ縄張りの城も存在しないのである。
● 戦い方と武器の変化
初期の山城では、自然地形を利用した比較的単純な構造が多かった。しかし戦国時代後期になると鉄砲が広く普及し、城にはより高い防御性能が求められるようになった。その結果、石垣が大規模に用いられ、敵を直進させず横から攻撃できる枡形虎口(ますがたこぐち)など、複雑で計算された縄張りが発達していった。
● 権威を示す政治的役割
織田信長の安土城以降、城は単なる軍事施設ではなくなった。壮大な石垣や豪華な天守は、防御施設であると同時に領主の権力や財力を示す象徴でもあった。
豊臣秀吉の大坂城や徳川家康の江戸城に見られるように、近世城郭は政治的な威信を表現する舞台としての役割も担うようになったのである。
こうして日本の城の歴史や構造を調べていくと、当時の武将たちが知恵を絞り、生き残りをかけて築き上げた合理的な工夫が次々と見えてくる。
特に現在残る城跡では、建物そのものは失われていても、土塁や堀、石垣、曲輪の配置から築城者の考え方を読み取ることができる。
「この場所で敵を止めようとしたのだろう」
「ここから城下町を見渡していたのかもしれない」
そんな想像を巡らせながら歩く時間は、城跡探訪ならではの醍醐味である。本稿では、日本の城を城郭構造という視点から見つめ直し、城跡に残された武将たちの知恵と魅力を探ってみたい。
地形による城の分類
日本の城は築かれた地形によって、
- 山城(やまじろ)
- 平山城(ひらやまじろ)
- 平城(ひらじろ)
- 水城(みずじろ)
の四つに大別される。
城跡を訪ねるときは、まず「この城はどの地形を利用して築かれたのか」を考えてみると、その城の特徴がよく見えてくる。
● 山城(やまじろ)
山城は、山そのものを要塞として利用した城である。
中世から戦国時代にかけて数多く築かれ、敵が攻め込みにくい急斜面や尾根を最大限に活用している。
険しい斜面は天然の城壁となり、尾根筋には曲輪が連続して配置される。人工的な石垣が少なくても高い防御力を発揮できたのが山城の特徴である。
戦国時代の山城では、居住性よりも防御性が優先されたため、現在でも複雑な堀切や土塁などの遺構が良好に残っている場合が多い。代表的な山城としては、竹田城、岡城、備中松山城などが知られている。
城跡を歩く際には、尾根を断ち切るように掘られた「堀切」に注目すると、防御の工夫がよく分かる。
● 平山城(ひらやまじろ)
平山城は、平野部にある丘陵や小高い山を利用して築かれた城である。山城ほど険しくはないものの、高所を利用できるため防御力を確保しやすく、同時に城下町の形成にも適していた。
戦国時代後期から近世にかけては、大名が広い領地を統治する必要が生じたため、防御と政治・経済の両立が求められるようになった。その結果、多くの平山城が築かれたのである。
石垣や堀、虎口などの防御施設が発達したのもこの時期であり、近世城郭の完成形といえる城も少なくない。代表例としては、姫路城、彦根城、米子城、郡山城などが挙げられる。
現地では、本丸から城下町を見下ろしてみると、なぜその場所が選ばれたのかが実感できる。
● 平城(ひらじろ)
平城は、文字どおり平地に築かれた城である。
防御面では山城や平山城に比べて不利であるため、堀や石垣、土塁を大規模に築いて防御力を補っている。
近世になると、城は軍事拠点であるだけでなく、政治・行政・経済の中心としての役割を担うようになった。そのため交通や物流の利便性が重視され、平野部に平城が築かれるようになった。
平城の周囲には大規模な城下町が形成され、多くの人々が集まり、商業や文化が発展していった。代表的な平城としては、大坂城、江戸城、二条城などが知られている。
現在の大都市の中心部が、かつて城であった例も少なくない。
● 水城(みずじろ)
水城とは、海や湖、河川、湿地などの水域を防御施設として利用した城である。
山城が山の険しさを利用したように、水城は水そのものを天然の堀として活用した。特に海に面した「海城(うみじろ)」では、城と港が一体化しているケースも多い。城内に船を引き入れる舟入が設けられ、物資輸送や軍事行動に利用された。
また、水上交通の要衝を押さえることで、経済的な利益や軍事上の優位性も確保していた。代表例としては、高松城、今治城、中津城などがある。
実際に訪れると、水堀越しに石垣が立ち上がる独特の景観を楽しむことができる。
縄張り(曲輪配置)による分類
近世城郭は、曲輪の配置によっても分類できる。曲輪とは、堀や石垣、土塁によって区画された平坦地のことで、本丸・二の丸・三の丸などを指す。
そして、曲輪をどのように配置し、虎口(城門)や堀をどこに設けるかという城全体の設計思想を「縄張り」という。
縄張りを見ると、その城の防御思想が見えてくる。代表的な縄張りは、輪郭式・梯郭式・連郭式の三形式であり、これに発展形として渦郭式がある。
● 輪郭式(りんかくしき)
輪郭式は、本丸を中央に置き、その周囲を二の丸・三の丸などが取り囲む構造である。四方に対して均等な防御力を発揮できるため、近世城郭の理想形の一つと考えられている。
比較的平坦な土地に築かれる平城との相性が良い。代表例としては、大坂城、駿府城、山形城などが挙げられる。
● 梯郭式(ていかくしき)
梯郭式は、本丸を城の片側に寄せ、一方または三方を二の丸で囲む構造である。本丸の背後に川や崖などの天然の要害を利用することが多く、限られた地形を有効活用できる。そのため平山城や山城で数多く採用された。
代表例として熊本城がよく知られている。熊本城を上空写真で見ると、本丸が城の中央ではなく一方に寄っていることが分かる。

● 連郭式(れんかくしき)
連郭式は、本丸・二の丸・三の丸などを一直線に並べる配置である。尾根筋を利用する山城に多く見られ、自然地形との相性がよい。一方で、正面方向の防御には優れるが、側面からの攻撃には比較的弱いとされる。
代表例としては竹田城が有名である。竹田城跡を歩くと、尾根に沿って曲輪が連続している様子を実感できる。
● 渦郭式(かかくしき)
渦郭式は、本丸を中心として二の丸・三の丸・城下町が螺旋状に配置される構造である。
攻め手は城の中心へ向かうまでに何度も方向転換を強いられ、その都度防御側から攻撃を受けることになる。極めて高度な縄張りであり、近世城郭の成熟した姿といえる。
代表例としては姫路城や江戸城がよく知られている。姫路城を実際に歩いてみると、天守が目の前に見えているにもかかわらず、なかなかたどり着けない。その巧妙な導線こそが渦郭式の魅力なのである。
城郭構造に隠された知恵
城跡に残された曲輪跡や石垣、土塁などを眺めていると、戦国時代の武将や築城技術者たちの創意工夫に驚かされる。
城は単に敵の攻撃を防ぐための壁や建物ではなかった。敵をどこから侵入させ、どこで足止めし、どこで迎撃するのか。そうした戦いの流れそのものを設計した総合的な防御施設だったのである。
枡形虎口、石落とし、高石垣、空堀、馬出などの構造を見ると、当時の築城技術が単なる建築技術ではなく、軍事工学とも呼ぶべき高度な知識の上に成り立っていたことが分かる。
彼らは敵の心理や行動を読み切り、限られた兵力で最大の防御効果を得るための空間を作り上げていたのである。
● 枡形虎口(ますがたこぐち)
枡形虎口とは、城門の内側に設けられた四角い区画空間のことである。
一般的には、外門と内門の二重構造になっており、侵入した敵は狭い枡形の内部で方向転換を強いられる。
敵が外門を突破してもすぐには城内へ進めず、周囲の石垣や櫓から攻撃を受けることになる。つまり城の入口そのものを防御拠点化した構造であり、敵を足止めして迎撃するための巧妙な仕組みであった。
城跡を訪れた際には、門を通る導線がまっすぐではなく、何度も折れ曲がるようになっていないか注目してみると面白い。
● 石落とし(いしおとし)
石落としとは、櫓や門の張り出し部分の床に設けられた開口部のことである。城壁に取り付いた敵に対し、真下へ攻撃するために設けられた。
通常の狭間からでは足元付近が死角になるため、石落としによってその弱点を補ったのである。
名称から大量の石を落としたように思われるが、実際には石だけでなく槍で突く、鉄砲を撃つなど多目的に利用されたと考えられている。
重要なのは、城壁の真下という死角をなくすための仕組みであったという点である。
● 高石垣(たかいしがき)
大坂城や伊賀上野城には、20メートルを超える巨大な石垣が残されている。こうした高石垣は単に高さを誇るためだけのものではない。多くの石垣は「扇の勾配」と呼ばれる美しい曲線を描いている。下部は緩やかで、上へ行くほど急になるこの構造によって、石垣全体の安定性が高められている。
また、敵にとっては登攀が極めて困難であり、防御施設としても高い効果を発揮した。
優れた土木技術と軍事的合理性が見事に融合した、日本城郭を象徴する構造の一つである。
● 空堀(からぼり)
空堀とは、水をたたえない堀である。山城では特に重要な防御施設であり、「堀切」や「竪堀」と呼ばれる形式が多く見られる。
尾根を横断して掘られた堀切は敵の進路を遮断し、斜面を縦に掘る竪堀は横方向への移動を困難にした。
一見すると単なる溝に見えるが、急斜面や深い谷状になっているため、実際には容易に越えることができない。
城跡を歩いていると、「なぜこんな場所に大きな溝があるのだろう」と感じることがあるが、その多くは敵の行動を制限するための重要な防御施設なのである。
● 馬出(うまだし)
馬出とは、虎口の外側に設けられた小規模な曲輪である。円形や三日月形をしたものが多く、敵が直接城門へ迫るのを防ぐ役割を果たした。
また、防御だけでなく反撃の拠点としても利用された。敵が混乱した瞬間を狙って兵を打って出ることが可能だったのである。
武田氏の城郭で特に発達した構造として知られている。
なお、大坂冬の陣で真田幸村が築いた真田丸は、一般的な馬出よりはるかに大規模な出丸であるが、その防御思想には共通する部分が多い。
● 犬走り(いぬばしり)
犬走りとは、石垣や土塁の裾に設けられた細長い平坦地のことである。犬が走れる程度の幅であることからこの名が付けられたといわれる。
主な役割は石垣の安定性を高めることであり、土砂の崩落を防ぐ効果があった。城によっては管理や補修のための作業空間としても利用されたと考えられている。
派手な防御施設ではないが、巨大な石垣を支える縁の下の力持ちといえる存在である。
● 狭間(さま)
狭間とは、櫓や土塀に設けられた射撃用の開口部である。外側は小さく、内側は大きく広がる構造になっている。このため、敵に狙われにくい一方で、防御側は広い範囲を攻撃することができた。形状には丸形、三角形、四角形などがあり、城によってさまざまな工夫が見られる。
城を訪れた際には、どの方向を意識して狭間が設けられているのか観察してみると、防御計画の意図が見えてくる。
● 一文字土塁(いちもんじどるい)
一文字土塁とは、虎口の前面に設けられた直線状の土塁である。
敵は城門へ一直線に進むことができず、左右どちらかへ迂回させられる。その結果、進軍速度が落ち、隊列も乱れやすくなる。防御側はその間に横や上方から攻撃することができた。
構造自体は単純であるが、敵の行動を効果的に制御する優れた防御施設であった。
このように、日本の城郭に見られる構造は、いずれも敵の行動を予測したうえで設計されている。
「敵を簡単に近づけない」
「近づいても狙い通りの場所へ誘導する」
「そして最も有利な場所で迎撃する」
これらは単なる建築技術ではなく、戦国武将たちが長年の戦経験から生み出した知恵の結晶であった。
私自身、城跡を訪れるたびに、石垣や堀の向こう側に築城者たちの思考の跡を見るような気がする。
なかでも最も印象に残るのは枡形虎口である。現在では穏やかな史跡となっているが、かつてここは侵入者を足止めし、迎え撃つための緻密な防御空間であった。
そうした仕組みを知ったうえで城跡を歩くと、景色の見え方がまったく変わってくるのである。
日本の城郭と天守の役割
今回取り上げる城跡を整理するため、日本各地の訪ねてみたい城跡をリストアップしてみた。
改めて調べてみると、日本には実に多くの城跡が残されていることに驚かされる。城郭に興味を持つのがもう少し早ければ、現役時代にももっと各地を訪ねていたかもしれないと思ったほどである。
私は長い間、「城には必ず天守があるもの」と思い込んでいた。しかし実際には、天守を備えていた城は決して多くない。中世の山城の多くには天守がなく、近世になってから築かれた城でも、天守が存在しないものや、のちに失われたものが少なくないのである。
そもそも天守とは何のために造られたのだろうか。
確かに天守は城内で最も高い建物であり、周囲を見渡すための機能を備えていた。高所から敵の動きを監視したり、城下の様子を見渡したりすることができたため、軍事的にも一定の役割を果たしていた。
しかし今日私たちが想像するほど、天守が常時軍事指揮の中心として使われていたわけではなかったようだ。
むしろ安土城以降の近世城郭では、天守は領主の権威や威信を象徴する存在としての意味合いを強く持つようになった。
巨大な天守は遠くからでもよく見える。その姿は、「この地を治めるのは誰か」を人々に示すシンボルでもあったのである。
特に江戸時代になると、天守は実戦のためというよりも、城の格式や藩主の権威を表す象徴的な建築物としての性格が強まった。
一方で、天守の内部は外観の華麗さに比べると意外に質実である。多くの天守は広い居住空間を備えておらず、日常生活を送る場所としては必ずしも適していなかった。
実際に城主が日常生活や政務を行ったのは、本丸御殿や二の丸御殿などの居館である場合がほとんどであった。
また天守には、非常時における最後の拠点としての役割もあったと考えられている。
さらに武具や兵粮、城に関する重要物資を保管する倉庫的な機能を備えていた例もある。姫路城の天守内部を見学すると、華やかな外観とは対照的に、実用性を重視した空間であったことがよく分かる。
こうして考えてみると、天守は単なる見張り台でもなければ、城主の住居でもない。
軍事施設であり、権威の象徴であり、ときには非常時の拠点や保管庫でもあるという、多面的な役割を担った存在だったのである。
現在、多くの城跡では天守そのものは失われている。しかし、天守台に立って周囲を見渡してみると、かつて城主たちが何を見ていたのかを想像できる。
私にとって天守とは、単なる観光名所ではなく、その城の歴史と築城者の思いを今に伝える象徴なのである。
実際に歩いてみると分かること
これまで紹介してきた枡形虎口、馬出、一文字土塁、空堀、高石垣といった城郭構造を組み合わせて考えてみると、戦国武将たちがどのように城を守ろうとしていたのかが見えてくる。
おおまかにいえば、その考え方は次のような流れであった。
- 空堀や高石垣によって敵の行動範囲を制限し、進軍経路を絞り込む。
- 一文字土塁や馬出によって敵の突撃を止め、隊列を乱す。
- 虎口や枡形によって敵を思いどおりの場所へ誘導する。
- 狭間や櫓などから攻撃を加え、防御側に有利な状況を作り出す。
つまり城とは、高い壁で敵を防ぐだけではなく、敵の動きをコントロールしながら少ない兵で効率よく守るための巨大な防御システムだったのである。
こうした視点を持ちながら城跡を歩くと、石垣や堀の見え方がまったく変わってくる。
ここでは、私が実際に訪れた城跡の中から、特に印象に残ったものを紹介したい。
● 岡城跡(大分県竹田市)
──絶壁と石垣が融合した山城
岡城は阿蘇山の火砕流によって形成された断崖上に築かれた山城である。
訪れてまず圧倒されるのは、高さのある壮大な石垣である。天然の断崖と人工の石垣が見事に組み合わされており、「難攻不落」と評された理由がよく分かる。
また、大手門周辺には複雑に折れ曲がる通路や石垣が残っており、虎口防御の巧妙さを体感できる。
石垣越しに周囲を見渡していると、築城者たちが地形を巧みに利用したことが実感できる城跡である。
● 竹田城跡(兵庫県朝来市)
── 天空の城に秘められた防御思想
「天空の城」として有名な竹田城跡だが、その本質は優れた山城にある。尾根に沿って曲輪が連続する連郭式の縄張りは、まさに山地を利用した要塞そのものである。
大手口周辺には食い違い虎口や枡形状の空間が配置され、攻め手は容易に前進できない構造になっている。
実際に歩いてみると、何度も方向転換を強いられ、城内への進入経路が巧みに制御されていることがよく分かる。
美しい景観だけでなく、防御施設としての完成度の高さにも注目したい城跡である。
● 大和郡山城跡(奈良県大和郡山市)
──近世城郭への発展を感じる城
豊臣秀長によって整備された大和郡山城は、近世城郭へ発展していく過程を知るうえで興味深い城である。
柳門跡や鉄門跡周辺には枡形虎口の痕跡が残っており、敵を容易に城内へ侵入させない工夫を見ることができる。
また、美しく積み上げられた石垣や堀も見どころの一つである。
城跡全体を歩くと、「見せる城」であると同時に、「守る城」でもあったことが理解できる。
● 米子城跡(鳥取県米子市)
── 日本海を望む戦略拠点
米子城は湊山に築かれた平山城であり、中海や日本海を見渡すことができる戦略的な立地を誇る。
この城の特徴は「登り石垣」にある。山麓から山頂へ向かって石垣が連続する姿は全国的にも珍しく、敵の移動を制限する優れた防御施設であった。
さらに本丸へ続く登城路には複数の虎口が配置されており、攻め手は段階的に消耗させられる構造になっている。
山城と近世城郭の要素が融合した魅力的な城跡である。
● 備中松山城(岡山県高梁市)
──現存天守と山城が一体となった名城
備中松山城は現存十二天守の一つであり、現在も天守が残る数少ない山城である。標高の高い場所に築かれているため、「天空の城」と呼ばれることもある。
大手門跡付近では、天然の岩盤と石垣を組み合わせた強固な防御施設を見ることができる。
さらに天守内部には狭間などの防御設備が残っており、築城当時の工夫を身近に感じることができる。
また、一階に設けられた囲炉裏も有名である。用途については諸説あるものの、籠城時の生活や実務を支えるための設備であったと考えられている。
現存する建物と城郭遺構を同時に観察できる点が、備中松山城最大の魅力と言えるだろう。
このように実際に城跡を歩いてみると、書物や図面だけでは分からなかった発見が数多くある。
現地に立つと、「なぜここに堀が掘られているのか」「なぜ石垣がこの角度で積まれているのか」といった築城者たちの意図が少しずつ見えてくる。
城跡は単なる観光地ではない。
それは戦国武将や築城技術者たちが残した巨大な設計図であり、歩きながら読み解くことのできる歴史書なのである。
そして私は、城跡を訪れるたびに、そこに込められた知恵と工夫の奥深さに感心させられるのである。
行ってみたい日本の城址
私がまだ訪れたことがなく、この記事を書きながら「ぜひ歩いてみたい」と感じた城跡を挙げてみたい。
城跡との出会いには不思議な縁がある。
書物で知識を得ても、実際に現地へ足を運び、自らの足で石垣や堀を見なければ分からないことがある。
次に訪ねるべき城跡として、今もっとも関心を抱いているのが以下の城である。
● 高取城跡(奈良県高取町)
──日本三大山城に残る壮大な石垣群
高取城は、備中松山城、岩村城とともに日本三大山城の一つに数えられている。
標高約580メートルの山上に築かれた巨大な城郭であり、かつて「巽(たつみ)高取、雪かと見れば」と詠われたほど、その壮麗さで知られていた。
現在は建物こそ残っていないが、本丸周辺には壮大な石垣が数多く残されている。
大手道から本丸へ向かう登城路には複数の虎口や門跡が配置され、攻め手を容易に近づけさせない縄張りが今も読み取れるという。
山中にひっそりと残る巨大な石垣群を目の前にしたとき、どのような感動が待っているのか、ぜひ自分の目で確かめてみたい。
● 観音寺城跡(滋賀県近江八幡市)
──六角氏の栄華を伝える巨大山城
観音寺城は戦国大名六角氏の本拠地として栄えた山城である。
近江の山中に築かれた城でありながら、大規模な石垣が数多く残されており、近世城郭への発展を考える上でも重要な存在とされている。
現在も平井丸や池田丸などに石垣遺構が残り、その規模の大きさに驚かされるという。
戦国の表舞台では織田信長の影に隠れがちな六角氏であるが、こうした城跡を見ると、彼らが築こうとした世界の大きさを感じることができそうである。
歴史に埋もれた武将たちの声が残されているような気がして、ぜひ一度訪ねてみたいと思う。
● 山中城跡(静岡県三島市)
──土の城郭技術の到達点
山中城は後北条氏によって整備された城として知られている。
この城の最大の特徴は、「障子堀」や「畝堀」と呼ばれる独特の空堀である。堀の内部が格子状に区切られており、上から眺めるとまるで障子や織物の文様のようにも見える。現在も復元整備が進んでおり、その美しい形状をはっきり確認できるという。
一方で、この構造は見た目の美しさだけではなく、敵の移動を妨げる実戦的な意味も持っていた。
城郭建築において「土」がどこまで高度な防御施設になり得るのか。その答えを教えてくれる城跡のように思える。
● 岩村城跡(岐阜県恵那市)
──雲上に築かれた石垣の名城
岩村城は日本三大山城の一つであり、標高約七百メートルの高地に築かれた名城である。
戦国時代には女城主として知られるおつやの方ゆかりの城としても有名である。
城跡には見事な石垣が残されており、なかでも本丸周辺の高石垣は圧巻といわれている。
山城でありながら近世城郭にも通じる洗練された石垣構造を備えており、土の城から石の城へと発展していく城郭史の流れを感じられそうである。
かつておつやの方が見上げ、あるいは見下ろした山々を、同じ場所から眺めてみたいと思う。
● 杉山城跡(埼玉県嵐山町)
──「土の城」の教科書と呼ばれる名城
杉山城跡は建物も石垣もほとんど残っていない。しかし、城郭研究者や山城愛好家の間では高い評価を受けている城である。
最大の魅力は、土塁や空堀、馬出などが極めて良好な状態で残されていることにある。城内の通路は複雑に折れ曲がり、敵の動きを制御する巧みな縄張りが随所に見られるという。
また、築城年代をめぐっては「杉山城問題」と呼ばれる研究上の論争が続いており、その点でも興味深い存在である。
派手な石垣や天守がないぶん、純粋に縄張りの面白さを味わえる城跡なのだろう。
城郭構造の知識を十分に身につけてから訪ねれば、その真価がより深く理解できそうである。
こうして眺めてみると、私が惹かれるのは単に有名な城ではなく、「築城者たちの知恵が色濃く残る城跡」であることに気づく。
天守がなくてもよい。建物が残っていなくてもよい。
堀や石垣、土塁、そして曲輪の配置が残されていれば、そこには築城者たちの思考が今なお息づいている。
城跡を歩くということは、石や土に刻まれた戦国武将たちの設計図を読み解く旅なのかもしれない。
だからこそ私は、次にどの城跡を訪ねようかと考える時間そのものにも、大きな楽しみを感じているのである。

◆ あとがき
城跡を訪ねる楽しみは、歴史上の人物を偲ぶことだけではない。
地形を読み、縄張りを読み、石垣や堀を読み解くことで、私たちは築城者たちの知恵や想いに触れることができる。
城跡は歴史の教科書であると同時に、戦国時代から江戸時代にかけて築かれた巨大な建築作品でもある。
今回この記事を書くにあたり、日本城郭協会が選定した「続日本100名城」を含む名城の一覧を改めて眺めてみた。すると、自分が実際に訪ねた城跡はまだほんの一部に過ぎないことに気づかされた。
会社員時代には仕事や家庭の都合もあり、城跡めぐりは限られた機会にしかできなかった。しかし、今は幸いにも時間という贈り物を手にしている。
山登りのように体力が必要な場所もあるが、多くの城跡はその気になれば訪ねることができる距離にある。ところが、「いつでも行ける」と思っているうちに年月は過ぎてしまう。
気がつけば、行ってみたいと思いながら一度も訪れることなく終わってしまう城跡もあるかもしれない。
だからこそ、思い立った時が出かける時なのだろう。
これから先、高取城や岩村城、山中城、そして杉山城など、まだ見ぬ城跡を一つひとつ歩いてみたいと思う。その土地の風を感じながら石垣に触れ、堀を眺め、築城者たちが何を考えてその場所を選び、どのような城を築こうとしたのかに思いを巡らせてみたい。
城跡は静かである。
しかし、その静けさの中には、かつてこの国を生きた武将たちや名もなき人々の営みが確かに息づいている。
だから私は、これからも機会を見つけて城跡を歩き続けたい。
そして、その旅で得た発見や感動を、また皆さんと共有できれば幸いである。