| <目次> はじめに 甲賀流忍者の里 甲賀流忍者屋敷 甲賀の里・忍術村 甲賀流忍者の歴史 甲賀流忍者の政治・組織 甲賀流忍者の得意な忍術 甲賀流忍者の流儀 甲賀流忍者の衣装と変装術 忍装束 変装術 甲賀流忍者の食事 携帯食 遁走術 歩法と走法 忍者の体力(指で体重を支える腕力) 甲賀流忍者の道具 忍者特有の武器 忍者文字 伊賀流忍者との相違点 あとがき |
◆ はじめに
海外、特にアメリカでは「NINJA」が人気だと聞くが、私自身も子どもの頃は忍者ものの漫画やドラマ、映画が大好きだった。なぜそれほど惹かれたのかといえば、手裏剣や忍術を自在に操る姿がとにかく格好よく、強い憧れを抱いていたからだと思う。
当時は、今とは違って忍者を主人公にしたテレビドラマが頻繁に放映されていた。かつて野球中継がサッカーよりも多かったように、単に目に触れる機会が多かっただけかもしれない。しかし、それでも忍者への憧れは特別なものだった。アメリカでNINJAが注目されるのも、そんな“格好よさ”が普遍的に響くからではないかと想像している。
私の好きな司馬遼太郎の作品にも忍者が登場する。たとえば長編小説『風神の門』では、伊賀流忍者の霧隠才蔵【きりがくれさいぞう】が主人公として描かれ、真田十勇士の筆頭として甲賀流忍者の猿飛佐助も登場する。
伊賀流忍者と甲賀流忍者は、忍者の世界における二大勢力とされる。忍者の主な任務は諜報活動であり、戦時には傭兵として戦いに参加し、敵陣の攪乱や破壊工作を担ったと伝えられている。
両者の里は、現在の三重県伊賀市と滋賀県甲賀市の山間部に位置し、山を隔てて隣接するほど近い距離にある。漫画やドラマでは両者が常に敵対するように描かれるが、それはあくまでエンターテインメントの演出であろう。地理的な近さを考えれば、むしろ良好な関係を保っていたと考える方が自然である。隣人同士が協調して暮らすことは、古来より変わらぬ道理である。
幸いにも、私は今、かつて伊賀国に属した名張市で過ごす時間が長くなっている。名張市からは、伊賀流忍者の里・伊賀市にも、甲賀流忍者の里・甲賀市にも比較的近い。この地の利を活かし、両者の里を訪ねて伊賀流と甲賀流の虚像と実像を学び、その違いを探ってみた。 本稿では、その成果をまとめてみたい。
甲賀流忍者の里
滋賀県甲賀市は、甲賀流忍者発祥の地として広く知られている。そのため、甲賀流忍者をテーマにした「甲賀の里 忍術村」が整備されており、甲賀五十三家の筆頭格であった望月氏の旧邸は「甲賀流忍術屋敷」として公開されている。いずれも甲賀流忍者の実像や暮らしを今に伝える貴重な施設で、秘伝書や忍具の展示、当時のからくり屋敷の構造など、見どころが多い。老若男女を問わず人気が高いのも頷ける。
かつて私が甲賀市で勤務していた頃、出張先で初対面の人から居住地を尋ねられ、「甲賀忍者の里です」と答えると、多くの人がすぐに納得してくれた経験がある。それほど甲賀市は「忍者の里」としての知名度が高い。
甲賀市には、甲賀流忍者について学べる場所が複数ある。 一つは望月氏本家旧邸を公開した 甲賀流忍術屋敷、もう一つは「甲賀の里 忍術村」内にある 甲賀忍術博物館 である。 今回はその二つを訪ね、甲賀流忍者の歴史と実像について学ぶことにした。
甲賀流忍術屋敷
甲賀流忍術屋敷は、甲賀五十三家の筆頭格であった望月家の旧邸を一般に公開している。当時のまま残されている防衛のための屋敷内の「からくり(仕掛け)」をガイド付きで見学することができる。
興味深いのは、外見は一般的な日本家屋だが、内部は外敵の襲撃に備え、また侵入した敵を捕らえるための「どんでん返し扉」(回転戸)や「落とし穴」、さらには「隠し梯子」と「隠し部屋」など「からくり(仕掛け)」が多く施されている点である。

望月家(望月出雲守)の旧邸は、住居として元禄年間(1688年~1704年)に建てられたものである。屋敷には望月家の家紋の「丸に九曜紋」が瓦など至る所に描かれている。
また、甲賀の地に伝わる甲賀流忍者の秘伝の書や忍具も紹介されている。甲賀忍者の奥義を記した甲賀流伝書(虎の巻)など数々の貴重な品が展示されており、忍者の生活を伺うことができる。
忍具として有名なのは、手裏剣や撒菱などであるが、資料室には勿論、実物が展示されているので、リアリティがある。
| 名 称 | 甲賀流忍術屋敷 |
| 所在地 | 甲賀市甲南町竜法師2331 |
| 電 話 | 0748-86-2179 |
| 営業 | 9:30~17:00 (入館は16:30まで) 休館日:毎週水曜日 及び第4木曜日 |
| 入館料 | 大人650円 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 甲賀流忍術屋敷 |
甲賀の里・忍術村
甲賀の里 忍術村は、甲賀流忍者発祥の地として、この地に伝わる甲賀流忍者の秘伝の書(忍術書)、忍者が使用する道具である忍具や忍者屋敷を紹介しているテーマパークである。
村内(園内)には旧岡田家(甲賀忍術博物館)と旧藤林家(からくり忍者屋敷)が移築されている。

甲賀忍術博物館には、世界一を標榜する忍術資料が収蔵されている。また、旧藤林家は、「万川集海」の著者として知られる藤林保武の一族の家を移築したものとされる。
村内(園内)では、忍者の技や道具(忍具)を見たり、忍具の手裏剣や水蜘蛛などの忍術を体験できる屋外型のアスレチックなどもあり、多くの観光客から人気を博している。
| 名 称 | 甲賀の里 忍術村 |
| 所在地 | 滋賀県甲賀市甲賀町隠岐394 |
| 電 話 | 0748-88-5000 |
| 入館料 | 大人1,100円 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 甲賀の里忍術村 |
甲賀流忍者の歴史
忍者とは「忍術を使う者」を指すが、その起源には諸説あり、誰が始祖であるかは明確ではない。一説には、聖徳太子(厩戸皇子)に仕えた大伴細入【おおとものさいにゅう】が最初の忍者であったとも伝えられるが、史料が乏しく、伝説の域を出ない。
甲賀流忍者が歴史の表舞台でその存在を強く認識されたのは、1487年の「鈎の陣」【まがりのじん】である。幕府の命に背いた佐々木六角氏を討つため、九代将軍・足利義尚が甲賀城を攻めたが、六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦に持ち込んだ。この戦いは義尚が1489年に鈎の陣屋で没するまで約3年続き、六角氏に加担した甲賀武士(甲賀忍者)の活躍が全国に知られる契機となった。
その5年後の明応元年(1492年)にも、将軍となった足利義種が甲賀総攻撃を命じたが、六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢へと落ち延びた。六角氏にとって甲賀忍者は欠かせない存在となっていた。
しかし永禄11年(1568年)、六角氏は織田信長からの「近江路案内役」の依頼を断ったため、信長に居城・支城を次々と攻略される。 さらに天正9年(1581年)、信長は約5万の大軍を率いて「第二次天正伊賀の乱」を決行し、近江の雄であった六角氏の時代は終焉を迎えた。 この敗因の一つとして、甲賀忍者が六角氏を積極的に支援しなかったことが挙げられる。
甲賀忍者が動かなかった背景には、徳川家康の存在があったとされる。「六角氏に加担しないこと」を条件に、家康が甲賀攻めを行わないと約束し、甲賀側がこれを受け入れたという説がある。
甲賀忍者はもともと攻撃的な集団ではなく、自らの生活を守るために武力を行使してきたとされる。六角氏に協力していたのも、当時の近江で六角氏が圧倒的勢力であったためであり、その衰退を見て甲賀忍者は信長寄りの姿勢を取るようになった。
とはいえ、信長の強大な武力の前に甲賀忍者は屈したものの、内心では信長に反発していたと伝わる。信長もまた、甲賀忍者を警戒していたという。
本能寺の変と甲賀忍者の動き
天正10年(1582年)、第二次天正伊賀の乱からわずか8ヶ月後に「本能寺の変」が起こる。 明智光秀が信長を急襲し、信長は自害に追い込まれた。
このとき、信長の招きで「都見物」に来ていた徳川家康は、大阪でこの報を聞き、急ぎ三河へ帰ろうとしたが、光秀勢に帰路を断たれ窮地に陥った。 その際、甲賀忍者の援護により、家康は宇治田原から信楽へ入り、甲賀五十三家の一つ・多羅尾家に一泊した。
その後は服部半蔵率いる伊賀忍者の護衛を受け、伊賀から加太越え【かぶとごえ】で伊勢の白子浜へ出て、海路で三河へ帰還した。 この「神君伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張・鳴海に召し出されて「伊賀二百人組」が組織された。
忍者集団が天下の行方を読み、家康に味方したことは、彼らの先見性を示す象徴的な出来事である。
徳川家康と甲賀忍者
信長・秀吉・家康という三人の英雄の中で、最終的に天下を取るのは家康であると、忍者たちは早くから見抜いていたかのようである。 実際、家康は戦国大名の中でも特に忍者を重用した人物であり、永禄元年(1558年)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名も雇い入れていたとされる。 家康は「情報収集」の重要性をいち早く理解していた大名であった。
江戸移住と甲賀忍者の終焉
甲賀忍者が江戸に移住したのは寛永11年(1634年)で、伊賀忍者より約50年遅れてのことである。 その理由は、甲賀忍者が合議制の伝統を持ち、先祖代々の土地を離れることに反対する者が多かったためとされる。 意思決定に半世紀を要したことは、甲賀忍者の合議制がいかに徹底していたかを示す貴重な史実である。
最終的には大原氏ら数名が江戸移住を決断し、これが「甲賀百人組」の江戸移住のきっかけとなった。大原氏はまさに“ファーストペンギン”であったと言える。
江戸に移住した甲賀忍者は鉄砲隊などで活躍したが、江戸幕府の身分制・世襲制の中で忍術を伝える必要も学ぶ必要もなくなり、世代交代とともに忍者は姿を消していった。
甲賀の地で生まれ、戦国の乱世で育った甲賀流忍術は、太平の世となった江戸時代には役割を終え、やがて歴史の中に消えていったのである。
忍者の社会
甲賀流忍者の政治・組織
甲賀の忍者集団には、「惣」【そう】と呼ばれる共同体組織が存在していた。伊賀の忍者集団とは異なり、豪族層とその他の忍びの間に明確な上下関係はなく、構成員はほぼ対等の立場であったとされる。
この共同体の意思決定は、多数決による合議制で行われていた。日本全体が封建社会の只中にあった時代に、甲賀の地ではすでに民主的な仕組みが機能していたという点は、非常に興味深い。
甲賀忍者の活動範囲は、現在の滋賀県甲賀市【こうかし】と湖南市【こなんし】に相当する地域である。彼らは普段は農業や行商に従事しながら、各地で情報を収集する諜報員としての役割も果たしていた。 しかし、ひとたび指令が下れば戦場へ赴き、忍者としての任務を遂行した。 いわば「平時は民、戦時は忍」という働き方であり、現代のフリーランスにも通じる柔軟な働き方をしていたと言えるだろう。 この点もまた、当時としては非常に進歩的であった。
忍者の技術
甲賀流忍術の得意な忍術
甲賀流忍者の得意分野は、医療や薬の扱いであったとされる。ここでいう薬には治療薬だけでなく、毒薬も含まれる。韓国ドラマの宮廷物にしばしば登場する「毒による暗殺」を思わせるが、甲賀忍者も毒薬の調合や使用に長けていたと伝えられており、その技術はまさに恐るべきものであった。
甲賀の忍者たちは、普段は行商をしながら各地を巡り、情報収集を行っていた。行商では治療用の薬を売り、地域の医療にも貢献していたと考えられる。 その一方で、必要とあれば毒薬を用いた任務も遂行した。まさに「薬と毒の両面」を使いこなすのが甲賀流の特徴である。
こうした歴史的背景の名残として、現在でも甲賀市周辺には製薬会社が多く立地している。地元住民の医薬品産業への理解が深く、企業が工場を誘致しやすい土地柄であることも、甲賀の伝統と無関係ではないだろう。
また、甲賀流忍術には「手妻【てづま】」と呼ばれる幻惑術がある。手妻とは、手品(マジック)のように手先の素早い動きで相手の注意をそらし、惑わせる技法である。甲賀忍者はこの手妻に長けていたとされ、もし現代のマジックの原型が甲賀流忍術にあったと考えるなら、非常に興味深く、どこか愉快でもある。
忍者の流儀
甲賀流忍者の流儀
甲賀の忍者集団も依頼者からの依頼に基づいて任務を請け負っていたが、伊賀流とは異なり、仕える主君(依頼主)を特定の家に絞り、一人の大名に忠誠を尽くす形をとっていたとされる。
とはいえ、武士のように「主君と運命を共にする」わけではない。仕えていた大名が没落すれば、甲賀忍者は新たな主君へと乗り換えた。 この点は、武士の倫理観とは異なるが、忍者という職能集団としては極めて合理的な判断であったと言える。
実際、甲賀忍者は当初は佐々木六角氏の配下にあり、その後は織田家、豊臣家、徳川家へと主君を変えている。 結果として、常に時代の勝者に仕える形となっており、これは彼らが優れた情報収集力と時代の先を読む洞察力を持っていたことの証左でもある。
常に諜報活動を行い、情勢分析に長けていた甲賀忍者であれば、次に天下を握るのが誰であるかを冷静に見極め、その変化に合わせて行動していたに違いない。
忍者の衣装と変装術
忍装束
忍者は普段は一般の武士や農民と変わらない服装をしていたが、敵情を探る際には、身軽で目立たない「忍装束」【しのびしょうぞく】を身につけたとされる。
テレビドラマや映画では黒一色の忍装束が定番だが、実際には真っ黒ではなかった。黒は月明かりの下で輪郭が浮き上がりやすいためである。赤やピンクなどの派手な色は完全にフィクションで、史実的根拠はない。
伊賀流忍者の忍装束は、クレ染めの濃紺が主流だったという。この紺染めは、まむし除けの効果があると信じられており、実用性も兼ね備えていた。また、忍装束の原型は伊賀地方の農民の作業着に覆面を加えたもので、夜間の行動に適した服装だった。
一方、甲賀流忍者は、表地が茶染・柿染などの茶系統、裏地が黒または鼠色の着物を着用していたと伝わる。自然の中に溶け込みやすい色合いで、こちらも合理的な選択であった。
忍装束の上着の内側には物入れが設けられ、シコロ(小型の両刃鋸)や三尺手拭などの細長い道具を収納した。また、胸元には銅鏡や渋紙・油紙・和紙などを入れ、簡易的な防弾具として利用したという。
身につけるものすべてが、防御と攻撃の両面に役立つよう工夫されていた。忍装束ひとつを見ても、忍者が常に合理性を追求していたことがよく分かる。
変装術
──七方出【しちほうで】
忍者には忍装束のほかに、情報収集のための変装術「七方出」があった。 単に衣装を変えるだけでなく、尺八を習得したり、経文や呪術を学んだり、ときには方言まで身につけるなど、怪しまれないための徹底した工夫と鍛錬が行われていた。
七方出として代表的なのは次の七種類である。
- 商人(あきんど)
- 怪しまれにくく、品物を売り歩きながら自然に情報収集ができた。
- 放下師【ほうかし】(手品師)
- 手妻(マジック)で人々を楽しませつつ、敵の警戒心を解くのに適していた。
- 虚無僧【こむそう】
- 編笠で顔を隠せるうえ、尺八を吹きながら各地を巡るため、行動が自然であった。
- 出家(僧侶)
- 托鉢をしながら歩く姿は怪しまれにくく、寺社を通じて情報を得ることもできた。
- 山伏【やまぶし】
- 修験者として山野を自由に歩けるため、潜入や移動に適していた。
- 猿楽師(能役者)
- 民衆に人気があり、大名に招かれることもあったため、敵城内に入る機会を得やすかった。
- 常型【じょうがた】(リバーシブルの着物)
- 表は普段着、裏は別の装束になっており、いざというときに着替えて敵の目をごまかした。
この七方出のほかにも、連歌師、琵琶法師、薬売りなど、さまざまな職に変装していたと伝えられる。 忍者の変装術は、単なる衣装替えではなく、徹底した観察力と学習力に支えられた高度な技術であった。
忍者の食事
忍者の普段の食事は、アワ・ヒエ・玄米・麦などの雑穀類、イモ類、野菜を中心とした質素なものであったとされる。 また、シイ・クワ・グミ・トチ・クリ・カヤなどの木の実や、ウズラの卵なども食していたという。
これは、敵の屋敷に忍び込む際、体臭で居場所を悟られないよう、匂いの強い食材を避けていたためである。ここにも忍者らしい合理的な判断が見て取れる。
とはいえ、忍者が常に禁欲的な食生活をしていたわけではない。体力を維持するため、必要に応じて肉や魚を食べることもあったと伝えられている。 任務に支障が出ない範囲で栄養を補給するという、極めて実務的な食事管理であった。
現代のダイエットや栄養管理にも応用できるほど、忍者の食生活には無駄がなく、合理性が貫かれている。
忍者の携帯食
当時の主な携帯食である干し飯などの他に、下記のような忍者特有の携帯食もあったという。
| 水渇丸(のどの渇きを抑えるための携帯食) |
| 梅肉を叩いた物に麦角(イネ科に寄生する菌)と砕いた氷砂糖を加えて丸薬にしたもの。 |
| 飢渇丸(飢えをしのぐための携帯食) |
| 人参、そば粉、小麦粉、山芋、甘草、はと麦、もち米を粉末にして、酒に3年浸す。 酒が乾いたらモモの種ぐらいに丸めて丸薬状にしたもの。 |
非常食として現代の登山の際にも使えそうなものである。
忍者の遁走術
忍術は武術ではないから、人と交戦することは最後の手段で、そのための護身術として手裏剣や武器を使用したという。
忍者の使命は諜報活動、つまり情報を持ち帰ることを仕事としていたので逃げ延びる忍術が多種多様にあったという。中でも有名な遁走術としては下記のようなものがあったと伝わっている。
| 火遁の術 |
| 火事や火薬(ほうり火矢・埋め火・爆竹)を使って敵を混乱させ、そのすきをついて逃げる。テレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格である。 |
| 水遁の術 |
| 水の中に姿を隠す。テレビドラマや映画で、忍者が城の堀池に身を隠して近づき、そこから城壁を駆け登り、城内に忍び込むシーンがある。 |
| 煙遁の術 |
| 煙玉を爆発させて煙幕をはる。この忍術もテレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格の一つである。 |
| 金遁の術 |
| 撒き菱や、手裏剣を使った逃げ方である。撒き菱は、当時の主流の履物であった草履には有効であったと推察される。 |
| 隠形術 |
| 草叢【くさむら】に隠れたり(木の葉隠れ)、物陰に隠れる(観音隠れ)、石に擬態する(ウズラ隠れ)などの隠遁術を指す。私は「木の葉隠れ」は木の葉が舞う間に隠遁する忍術だとばかり思っていたが、実際はそうではなかった。私のイメージは漫画の世界での忍術であったということである。 |
忍者の歩法と走法
忍者の諜報活動は、情報の収集と伝達が主であるから忍び込むためのひっそり歩く技術と、得た情報をいち早く伝えるための走力を必要とした。
歩くための代表的な忍術として、下記の5つが伝わっている。
| 忍び足 |
| 音を立てないよう足の小指から徐々に体重をおろして歩く方法を指す。現在でも「物音を立てずにゆっくりと歩くこと」を「忍び足」と呼ぶことがある。 |
| 浮足 |
| つま先から足を下ろす。 |
| 犬走 |
| 立って歩けないところを四つんばいで歩く。 |
| 狐走 |
| 音を全くたてずに、立って歩けないところをつま先を立てた四つんばいで歩く。 |
| 深草兎歩 |
| 音を全くたてずに、手の上に足を乗せて歩く。 |
速く走れなければ、忍者にはなれなかったらしい。「韋駄天」と呼ばれる足の速い忍者の場合は、一日に50里(約200km)を走ることができたとされる。2022年24時間テレビのチャリティーマラソンの距離は100kmであったが、その2倍の距離を走っていたというのだから驚きである。
二重息吹という呼吸法、つまり「吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吸う、吸う、吐く」のリズムで呼吸を繰り返すと酸素の摂取量も増え、余計なことを考えず集中して走ることができるとされているが、それだけで速く走れるわけがない。
忍者の歩法と走法は、日々のたゆまぬ努力と訓練によって達成できたのだろう。私には到底無理であり、この走るという訓練だけでも私は忍者には決してなりたくない。なりたいと願ったところで、なれはしないとは思うが・・・
忍者の体力(指で体重を支える腕力)
忍者は天井裏での活動が多いため、日頃から指を鍛えていたという。自分の体を持ち上げたり、天井にぶら下がったりするためである。
忍者はその訓練のために米俵を使っていたとされている。その米俵は約60kgであったとされるから、自分の体重は60kg以下であった可能性が高い。
体重が70kg以上もある忍者はさらに重い米俵を使っていたのだろうか? 当時、そんなデブの忍者はいなかっただろう。
忍者の使用道具
忍者の代表的な武器は手裏剣であるが、そんなモノを持ち歩いていて途中身体検査をされたら正体がばれる恐れがある。だから実際には手裏剣は必要な時以外は持ち歩いていなかったらしい。
では、手裏剣の代わりに何をもっていたかというと、持ち歩いてもあやしまれない武器(=農具)を使用していたという。代表的なものとして下記のようなものが知られている。
| 鎌 |
| 草刈りや稲刈りに使用する農具であるが、切りつけたりできる武器になる。あるいは4個の鎌の柄の部分を重ねて紐で縛り、それに長い紐をつけて高いところに引っ掛ければそれをつたってよじ登ることができる。 |
| 手棒 |
| 稲からお米をとる脱穀道具であるが、ヌンチャクのように振り回すと武器になる。 |
| 五徳 |
| 熱した鉄瓶を乗せるものであるが、足を取り外側を削って手裏剣代わりとすれば武器になる。 |
| 火箸 |
| 炭を持つ道具であるが、振り回したり、投げつければ武器となる。 |
| 龍た(吨) |
| 井戸に落とした物を引き上げる道具であるが、敵を引っ掛ける武器になる。 |
| 足鉤 |
| 滑りやすいところを歩く道具であるが、敵を蹴ったり、踏んだりすると武器として使える。 |
| 萬刀 |
| 植木挟みであるが、ふりまわせば武器として使える。 |
| 角指/手かぎ |
| 稲刈りや草刈りに使用する農具の一種であるが、手にはめて攻撃用の武器にすることができる。 |
| 苦無 |
| 土を掘る道具 |
| 坪錐 |
| 土塀に穴をあける道具 |
| しころ |
| 木を切る道具 |
忍者特有の武器
手裏剣
忍者の代表的な武器は言えば、手裏剣【しゅりけん】である。幼い頃に流行った忍者遊びにはおもちゃの手裏剣は外せなかった。
手裏剣には、平型手裏剣や棒状手裏剣がある。その形状はいろいろで、四、五、六、七、八角形とさまざまな種類がある。
また、刃先は短くそれ自体に殺傷能力はないが、刃先に毒を塗るなど工夫を凝らせて、殺傷能力を高めたという。ただし、持ち歩くと怪しまれるので、五寸釘や縫い針で代用したという話もある。

吹き矢
扉の隙間から吹き口を出して利用するなど、姿を隠して行動する忍者にとっては適切な武器だったらしい。通常は狩りなどで吹き矢が使われていたが、吹き筒は長くて持ち歩くと怪しまれるので、笛などを利用していたという。
針
衣類を繕う以外にも、針を火で焼いて水に浮かべて磁石にしたり(方角を知るため)、吹き矢などといった攻撃用に用いたという。怪しまれずに持つこともできるので、忍者には好都合な道具だったらしい。
捲き菱
逃げる時に追手が来る道にまいて、追手をはばむのに用いたという。当時は草鞋【わらじ】を履いていたので効果があったようである。
忍者文字
忍者が手紙(密書)を書く時、誰かに見られても分からないように、仲間同士にしか通用しない特殊な文字を使っていたという。
忍者文字は、一種の暗号文のようなものである。忍者同士が使用した文字として忍びイロハや神代文字が知られている。
甲賀流忍者と伊賀流忍者との相違点
伊賀流忍者と甲賀流忍者の違いを考えると、主に次の三点に集約できるだろう。
- ビジネススタイル(仕え方)
- 組織構造
- 得意とする忍術
1. ビジネススタイル
伊賀流忍者は依頼主に忠実に働くものの、依頼主が変われば敵対勢力にも仕えることがあった。 つまり「依頼主ありき」のドライな契約関係であり、現代でいえばフリーランスに近い働き方である。
一方、甲賀流忍者は一人の主君に仕えることを基本とし、主従関係が強かった。 そのため忠誠心は伊賀よりも相対的に強いが、主君が没落すれば自らの立場も同時に失うというリスクを抱えていた。
2. 組織構造
伊賀流忍者には、上忍・中忍・下忍といった明確な上下関係が存在し、特に上忍御三家(百地・藤林・服部)の意思決定が重視されていた。
一方、甲賀流忍者は「惣【そう】」と呼ばれる自治組織を持ち、構成員がほぼ対等の立場で参加し、多数決による合議制で物事を決めていた。 封建社会の中で、早くから民主的な仕組みが機能していた点は非常に興味深い。
3. 得意な忍術
伊賀流忍者は「火遁の術」や呪術を得意とし、火薬を用いた派手な戦法が特徴とされる。 一方、甲賀流忍者は医療・毒薬・手妻(てづま=手品の原型とされる幻惑術)など、より実務的で地味だが効果的な技術を得意とした。
派手さでは伊賀、実務性では甲賀という対比が見られるが、地味な忍術ほど不気味で、敵にとっては脅威であったに違いない。
また、現在でも甲賀流忍者の里である甲賀市甲賀町には製薬会社が多く立地しており、これは甲賀が古くから薬の知識に長けていた名残とも言われている。
◆ あとがき
伊賀流忍者と甲賀流忍者は、どちらも「忍び」であるがゆえに、さまざまな作品では対立関係として描かれることが多い。これは、敵対構図のほうが物語として分かりやすく、エンターテインメントとして魅力的だからにほかならない。
しかし、史実としての伊賀と甲賀の関係は、むしろ良好であったと伝えられている。合理的な思考を重んじた彼らにとって、同じ忍び同士が無用に争うことは双方にとって不利益であり、協調こそが最善であると理解していたのだろう。
現在でも、甲賀流忍者の里である甲賀市甲賀町には製薬会社が多く立地している。地域として医薬品産業への理解が深く、受け入れ体制が整っていることもあり、ドイツのバイエル社の日本法人であるバイエル薬品株式会社がこの地に滋賀工場を構えることを決めたという話にも納得がいく。 甲賀が古くから薬の知識に長けていたという歴史的背景が、現代の産業構造にも静かに息づいているように思える。